今年、第37回東京国際映画祭(2024)に「ウィメンズ・エンパワーメント」部門が新設され、女性監督の作品、あるいは女性の活躍をテーマとする作品に焦点をあてた部門として、東京都と連携し開催されました。この部門のシニア・プログラマーに、初代駐日マケドニア大使で自身も映画監督としての顔を持つアンドリヤナ・ツヴェトコビッチ氏が就任。海外と日本の新作8本が上映され(ゲストトーク付き上映も)、『映画をつくる女性たち』(熊谷博子監督)の上映とシンポジウム「女性監督は歩き続ける」が開催された。
この部門での女性監督の作品は7作品だが、映画祭全体では、男女共同監督を含めた女性監督作品は43本(女性のみ37本、男女共同6本)で全体の中での比率は21.9%(昨年は22.4%、同じ監督による作品は作品数に関わらず1人としてカウント)だそう。
日本の女性監督第1号といわれる坂根田鶴子さんが1936年に監督デビューしてから約90年。女性監督や女性映画人は増え、男性と互して活躍している女性も出てきたが、日本の映画界では依然としてジェンダー格差は大きい。この90年、どんな変化があり、変わっていないことは何なのか、未来に向かってどういうことが必要なのか。このシンポジウム「女性監督は歩き続ける」に、ベテランから若手まで、幅広い世代の女性監督が登場し、男性中心の映画界での女性たちの苦戦苦闘、奮闘を振り返り、格差をなくし、労働環境を改善するために何ができるか語りあった。この日のイベントは無料で申し込み制だったが、200人余りの席はすぐに満席になった。そして参加してみると、知った顔がたくさん。「お久しぶり、元気だった」と、まるで同窓会のようだった。1978年の女たちの映画祭で『女ならやってみな』(デンマーク/1975年)上映などの活動をしていた人もいた。
*シネマジャーナル関連記事
・第37回東京国際映画祭 「ウィメンズ・エンパワーメント」部門新設!
・新設「ウィメンズ・エンパワーメント部門」 シニア・プログラマー アンドリヤナ・ツヴェトコビッチさんに聞く
★37回東京国際映画祭 ウィメンズ・エンパワーメント部門シンポジウム
『映画をつくる女性たち』の上映とシンポジウム「女性監督は歩き続ける 」
11月4日(月・祝 )10:00-17:00
10時から オープニングトーク【東京国際女性映画祭の思い出】
挨 拶: 安藤裕康(第37回東京国際映画祭)
ゲスト:クリスティン・ハキム(インドネシア 俳優・プロデューサー)
聞き手:近藤香南子
『映画をつくる女性たち』監督:熊谷博子 (2004,103min)の上映
13時からシンポジウム「女性監督は歩き続ける」
女性監督クロストーク(4部構成)
[第1部] 道を拓いた監督たち
登壇者:熊谷博子、浜野佐知、松井久子、山﨑博子
聞き手:森宗厚子(フィルム・アーキビスト、広島市映像文化ライブラリー)
[第2部] 道を歩む監督たち
登壇者:佐藤嗣麻子、西川美和、岨手由貴子、ふくだももこ、金子由里奈
聞き手:近藤香南子
[第3部] ウィメンズ・エンパワメント上映作品の監督たち
登壇者:ジェイラン・オズギュン・オズチェリキ(トルコ)、オリヴァー・チャン(香港)、甲斐さやか
聞き手:アンドリヤナ・ツヴェトコビッチ(当部門シニア・プログラマー)
[第4部] 女性映画監督の未来+Q&A
登壇者 : 1、2 、3 部の監督たち
聞き手 :児玉美月氏(映画文筆家)
会場:東京ミッドタウン日比谷 BASE Q
入場無 料(事前申込制)※場内お子様連れ可、託児・見守りサービス・キッズスペースあり
スタッフ
シンポジウム企画・プロデュース:近藤香南子
公式ブックレット編集:月永理絵
公式ブックレットデザイン:中野香
制作協力:田澤真理子
当日制作協力:坂野かおり、角田沙也香、中根若恵
当日託児:in-Cty 合同会社
当日記録:木下雄介、木下笑子、矢川健吾
●今回の第37回東京国際映画祭「ウィメンズ・エンパワーメント部門」での上映作品
1、『徒花-ADABANA-』(日本/フランス、甲斐さやか監督)
2、『10セカンズ』(トルコ、ジェイラン・オズギュン・オズチェリキ監督)
3、『イヴォ』(ドイツ、エヴァ・トロビッシュ監督)
4、『マイデゴル』(イラン/ドイツ/フランス、サルヴェナズ・アラムベイギ監督)
5、『灼熱の体の記憶』(コスタリカ/スペイン、アントネラ・スダサッシ・フルニス監督)
6、『母性のモンタージュ』(香港、オリヴァー・チャン監督)
7、『私の好きなケーキ』(イラン/フランス/スウェーデン/ドイツ、マリヤム・モガッダム&ベタシュ・サナイハ監督)
8、『劇場版ドクターX』(日本/田村直己監督)
●オープニングトーク【東京国際女性映画祭の思い出】
最初に、企画者の近藤香南子さんが、このシンポジウムをやろうと思ったきっかけや、どういう流れでこのイベントを作ってきたかを語った。国立映画アーカイブで企画された「日本の女性映画人」の中で、『映画をつくる女性たち』を観て、この中で羽田澄子監督の「感じた人は行動する責任がある」の言葉に触発され、本シンポジウムを企画したという。また、かつて開催されていた東京国際女性映画祭を設立した故・高野悦子さんへの賛辞や、これまで先輩監督たちとの交流がなかったことが語られ、こういう企画を立ち上げた経緯が語られた。会場には女性が参加しやすいように託児スペースも設けられた。また、来場者に配られたブックレットの制作にもふれた。日本の女性監督の作品一覧をまとめ、アーカイブ資料やインタビューも掲載された充実した内容に仕上がっている。
安藤裕康チェアマンが登場し、東京国際女性映画祭が始まったいきさつと高野悦子さんとの思い出などが語られた。1985年の第1回東京国際映画祭から、岩波ホール総支配人だった高野悦子さん、大竹洋子さん(岩波ホール)、小藤田千栄子さん(映画評論家)などが中心になり、女性監督作品を上映する東京国際女性映画祭(当初は隔年でカネボウ女性映画週間と言っていた)が併設されていました。2012年まで25回にわたって開催。その頃と比べれば映画界での女性の数は増えてはいるが、男性と対等とは言いがたい状況は変わらずということで、女性監督を応援していこうと、今回、ウイメンズエンパワメントを新設したことも語った。
高野悦子さんは、1985年頃は岩波ホールの総支配人として、その頃、あちこちに出現してきたミニシアターの牽引者的存在でした。でも本当は映画監督になりたいと、勤めていた映画会社を辞め、フランスに渡り、高等映画学院(IDHEC)の監督科で学び、日本に戻って監督の道をと思ったのですが、その道は叶わず、40歳を前に岩波ホールの支配人になり、それ以降はたくさんの国内外の監督作品を紹介していました。そんな中で始まった東京国際女性映画祭ですが、「世界の女性監督の紹介」と「日本の女性監督の輩出」を目標に続けていました。
シネマジャーナルでは、第2回(1987)の東京国際映画祭から取材し、「女性映画週間」も取材してきましたが、主に本誌で紹介してきました。一番最初の紹介はシネマジャーナル2号で紹介しています。2007年の第20回東京国際女性映画祭では、シネマジャーナル事務局の泉悦子監督の作品『心理学者 原口鶴子の青春 100年前のコロンビア大留学生が伝えたかったこと』(ドキュメンタリー91分)も上映されました。
*シネマジャーナル関連記事(ネット記事のみ)
・『心理学者 原口鶴子の青春 100年前のコロンビア大留学生が伝えたかったこと』HP
・2009 第22回東京国際女性映画祭 映像が女性で輝くとき
・追悼 高野悦子さん 2013年
・『ベアテの贈りもの』2004年東京国際女性映画祭で上映
1. ベアテ・シロタ・ゴードンさんインタビュー
2. 藤原智子監督インタビュー
3. 憲法24条の解説
そして、東京国際女性映画祭にゲストとして何回もいらしていたインドネシアの国民的大スターであり、プロデューサーなども勤め、『枕の上の葉』『チュッ・ニャ・ディン』『囁く砂』などの作品が日本でも公開されているクリスティン・ハキムさん(1956年生まれ)が登場し、高野悦子さんとの長い交流の話をしました。高野さんを「お母さん」と慕い、女優だけでなく映画製作の道へも導いてくれたと語っていた。高野さんは、日本やヨーロッパの映画人だけでなく、アジアの女性映画人も支え続けた。あまりにも高野さんとの思い出が多く、かなり時間が超過し30分くらい話していたと思うけど、この会場に来ていたこれまで東京国際女性映画祭に参加してなかった人には貴重な話だったと思います。
●『映画をつくる女性たち』監督:熊谷博子(2004,103min)上映
2004年となっていますが、「東京国際女性映画祭」が15回目を迎えるに当たり、記念作品として製作されたドキュメンタリー映画で2002年に上映されています。私はこの時に観て、シネマジャーナル57号(2002年12月発行)で紹介していますので、こちらは完成版ということなのでしょう。
登場するのは羽田澄子、渋谷昶子、宮城まり子、栗崎碧、関口典子、山崎博子、槙坪夛鶴子、村上康子、藤原智子、栗原奈名子、奈良橋陽子、高山由紀子、松浦雅子、松井久子、浜野左知、田中千世子、高野悦子、岡本みね子、飯野久など、この女性映画祭に参加した監督やプロデューサーの方々。そして坂根田鶴子、田中絹代ら日本の女性映画監督の草分けとも言える人たちも登場。彼女たちがどのような道を歩んできたのか、男性社会である映画界で女性が映画を撮るということにどんな意味があるのか、映画を撮り続けることの難しさや意義についてなどを語っていて、今や日本の女性映画監督黎明期を記録したものとして、貴重な記録となっている。
このイベントの企画者は近藤香南子さん。子育て中の元助監督で、今は映像系のクリエイターマネジメントをしているそうです。今年(2024)2月20日、国立映画アーカイブで『映画をつくる女性たち』を観て、スクリーンで語る女性映画人に「かっけ〜!」と思ったけど、今まで私はどうしてここで話している女性たちに出会っていなかったのだろうと思ったのがきっかけのようです。
詳細はこちら シンポジウム「女性監督は歩き続ける」をしますよ。
近藤さんはこのように言っていますが、逆に私は、この映画に出てきた人たちの作品を観てきて、取材した方もいるのに、シンポジウムに出てきた若い世代の監督は名前を知らない方もいました。この映画を22年ぶりに観て、改めて映画に取り組んだ女性たちの心意気や状況と、その後の変化について考えました。確かに当時と比べれば女性監督や映画の仕事に関わる女性も増えたと思うし、あの頃あった「女性が映画監督として指示を出しても無視されたり、仕事を進められなかった」という状況から比べれば、確かに進歩はあったと思うけど、商業的な映画作品には、まだまだ女性監督は多くない。もっとも商業的な映画をあまり観ない私としては、その分野に女性が増えればいいというものではないとは思っている。女性が映画界の中で働きやすく、また、活躍できる場が増えていければと思ってきた。
撮影現場で女性監督が「スタート」と声をかけると、「女の監督の言うことなんか聞けるか」と、照明を消されてしまったと語っていたシーンはよく覚えていたけど、これを語っていたのは渋谷昶子(あきこ)監督だったんだと思い出しました。渋谷監督には、映画に関わってきた自分史を書いてもらおうと、最晩年、入院している病院に何度も通い、やっと1話目を書いてもらったのですが、突然亡くなってしまい4話でまとめる予定が、1回目で終わってしまいました。とても残念でした。そんなことを思い出しながら観ました。
シネマジャーナル96号(2016年)
渋谷昶子監督 自身を語る 第1回「大連は私の原点」
●シンポジウム「女性監督は歩き続ける」
女性監督クロストーク(4部構成)
☆[第1部] 道を拓いた監督たち
『映画をつくる女性たち』を作った熊谷博子さん、この映画に出演した監督の中から、浜野佐知さん、松井久子さん、山﨑博子さんが登壇。聞き手は森宗厚子さん。ここに参加された監督たちは、シネマジャーナルではお馴染みの監督さん。また、森宗厚子さんも配給会社にいた時からの知り合いです。森宗厚子さんは「フィルム・アーキビスト」と紹介されていて、それはどういう意味?と思って調べてみました。森宗厚子さんは国立映画アーカイブ特定研究員で、国立映画アーカイブで2023年2月7日(火)-3月26日(日)に上映された「日本の女性映画人(1)――無声映画期から1960年代まで」や、2024年2月6日(火)-3月24日(日)に上映された「日本の女性映画人(2)1970-1980年代」の企画者です。森宗さん自らXで「フィルムアーキビストとは、文化資源の観点から映画等フィルム及び関連資料の収集・保存・上映・公開や研究等に携わる専門家を指す」と語っています。この上映会をするために収集した資料は相当な量だったでしょう。
この『映画をつくる女性たち』を作った熊谷博子監督は、『よみがえれ カレーズ』(1989)、『三池 終わらない炭鉱(やま)の物語』(2005)、『作兵衛さんと日本を掘る』(2018)、最新公開作は『かづゑ的』(2023年)など、ドキュメンタリー映画を撮り続けてきました。「右手にカメラ、左手に子供」というキャッチフレーズが印象に残っています。
この映画が20年たって上映されるとは思っていなかったので、バトンがリレーされ受け継がれ上映されたことが嬉しいと語り、東京国際女性映画祭の場に羽田澄子監督や渋谷昶子監督などの先輩がいて、それぞれの方の姿に元気づけられたこと、髙野さんの「低きに流れてはいけない」という言葉を紹介してくれました。そして女性映画祭は、「女性監督の居場所作り、繋がりをつくる場でもある。女性監督には率直に話せる場が必要」。そういう役割も担っていると語った。
『作兵衛さんと日本を掘る』 熊谷博子監督インタビュー
浜野監督は、女性が監督になる道がなかったから、ピンク映画に飛び込んだと回想。「女の性を女の手に取り戻す」をテーマに撮り続けている。当時200本あまりのピンク映画を作っていたけど、女性監督の最多監督作は田中絹代の6本だといわれて、ピンク映画は数に入らないのかと奮起し、非ピンクの長編映画制作に乗り出した。高野さんたち女性映画祭関係者にピンク映画を観せたエピソードを語り、男の監督が作るのとは違い「女性の視点がある」と評価してくれて、資金を集めるなど応援してくれたという。そして、『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』(1998)ができ、その後『百合祭』(2001)、『百合子、ダスヴィダーニヤ』(2011)、『雪子さんの足音』(2019)など6本の一般映画を製作。最新作は、大正時代に大逆罪で死刑判決を受けた無政府主義者金子文子の最後の闘いを映画化した『金子文子ー何が私をこうさせたか』。アジアやヨーロッパの女性映画祭で認められ、自信や力になったという。浜野監督といえば、サングラスがトレードマーク。「サングラスが戦闘服のつもり」と男社会での戦いを振り返った。
松井久子監督は、テレビドラマのプロデューサーを経て、50歳を過ぎてから映画監督になった。長編デビュー作『ユキエ』は、プロデューサーとして監督を探していたら、新藤兼人監督から自分で監督すれば監督になったという。アメリカで撮影したこの映画、監督とスタッフ
は同等な仲間だったけど、その後、日本で撮るようになったら、監督は1段上の扱いで居心地が悪かったという。『折り梅』(2001) 、『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』(2014)など5本の映画を製作。男性の描く女性像と女性の描く女性像には明確に違いがあり、観客が女性監督の作品を観たいと支えてくれるようになるといいと語った。
日米で映画製作をしてきた松井監督。お金を集めるところから、製作、公開と一人で奮闘してきたが、女性映画祭の場で女性監督たちと顔を合わせるのは貴重な場だったと語った。
『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』松井久子監督インタビュー
山崎監督は、東京国際女性映画祭には、高野氏から声をかけられて参加することになったという。角川春樹監督『天と地と』、蔵原惟繕監督『ストロベリーロード』の北米ロケのスタッフとして働き、91年、日本に帰国後、角川映画『ぼくらの七日間戦争2』で長編映画監督デビュー。その後、ドキュメンタリー映画『タラウマラの村々にて』、『女性監督にカンパイ!』(2007)などを撮る。
アメリカで映画を学んだが、日本のシステムの中では助監督になれず、通訳をなどをする中で大型商業作品に携わったが、日本独自の映画システムに苦労した。商業作品を手掛けたことを非難され、落ち込んでいた時に女性映画祭から声がかかり、毎年の参加がとても嬉しかったという。日本はジェンダーギャップ指数が後ろから数えたほうが早い。そういう国に暮らしていることを認識してやっていくしかない
という。
皆さん、年に一度の東京国際女性映画祭で海外の女性監督はじめさまざまな映画人と出会い、それぞれの苦労や喜びを語り会え、分かち合えたことがとてもよい経験になったと語っていました。「道を拓いた監督たち」というタイトルになっていますが、その前の世代の、ほんとうの意味での「道を拓いた監督たち」は、すでにほとんどの方が亡くなり、今では羽田澄子監督ぐらいしか残っていないのかもしれません。
☆[第2部] 道を歩む監督たち
登壇者:佐藤嗣麻(しま)子、西川美和、岨手(そで)由貴子、ふくだももこ、金子由里奈
聞き手:近藤香南子
左から 近藤香南子さん、佐藤嗣麻子監督、西川美和監督、岨手由貴子監督、ふくだももこ監督、金子由里奈監督
第1部の監督たちより若い世代の監督たちが登場。1部のトークを受けて、『映画をつくる女性たち』を観ての感想から、これまでの現場での経験、子育て世代の事情、映画業界の問題解決方法への意見など、若い世代ならではの話で盛り上がりました。
2002年『蛇イチゴ』で監督デビューした西川美和監督は、これまで女性の監督と知り合う機会が少なかった。直接会って話せていたら、自分の意識や歩み方も変わったかもしれない、これを機に横の繋がりが生まれればいいと語り、斜陽産業と言われた映画界に90年代に入り、「この仕事をやってると、家庭を持ったり、子供を産んだり、家を買ったりという普通の幸せはもう手に入らない」と思っていました。映画と心中するくらいの気持ちで、「それでも映画が作れるんだからいいという感覚で映画作りをしてきました。新人当時、なめられまいと、自分で脚本を書いて作品世界を掌握し、武装せざるを得なかったことが自分の作風になった。東京国際女性映画祭のような繋がれる場所があり、上の世代とパイプがあれば、映画と心中というような頑なさとは違う視野を持てたのかもしれない。
でも私の世代が「どうして子供を持てないのだろう」とか、「子供を持ったらどうなるんだろう」と思ってこなかったので、次の世代も変わってない状況になってしまったかもしれない」と語った。
西川監督は、今、映画界の労働環境を改善する運動に参加していますが、子育て中の映画スタッフを集めて声を聞く取り組みもしているそうです。西川監督は「映画業界に限らず、どの業界でも女性が働きやすい環境は、男性も働きやすいはず。みんなで横の繋がりを取りながら進めていきたい」とアピール。
金子由里奈監督(1995年生まれ)は、「映画を観て、今も地続きでうねりが続いている中に私はいるという実感が沸き上がってきて、すごく勇気づけられました。一方で20年前の映画だけど現状がそんなに変わってないと感じるところも多々ありますね。女性だけではなく、障害のある人や性的マイノリティが映画作りに参画できる環境を整える必要性」を訴えた。
2人の子供がいて子育て真っ最中の岨手由貴子監督(1983年生まれ)は「個人の努力だけでなく、もう少し映画業界からの支援や公的支援が必要。外圧がないとなかなか変わらない。またこの業界では指揮系統が男性的な発想でできていて、トラブルの解決方法が、サウナに行くだったりするけど私は行けない。サウナで何が解決するのか全然分からない(笑)」と言うと、他の監督も「ある、ある」と声をそろえた。
2016年にデビューしたふくだももこ監督(1991年生まれ)は、妊娠中にドラマの監督をした時の現場の協力態勢をふりかえり、「先輩たちが作った流れを享受している。妊娠中でも撮影に臨んで、なんとかなるもんだと思った。この経験が大きな学びになっただけでなく、次の世代にとってもいい前例になった。そのうえで、各家庭の状況に合ったきめ細かい支援も必要」と語ったが、一方で「撮影で長期間子どもと会えず、成長への影響が心配」と新たな悩みも。
そのうえで、「各家庭の状況に合ったきめ細かい支援が必要」とも。さらに、「すごい作品を撮っているのに、ある一定期間、急に作品が途切れる監督が女性監督にはたくさんいる。それは子育てが関係していると、出産後に気づいた」と、ふくだ監督。
イギリスで映画を学んだ佐藤嗣麻子監督(1964年生まれ)は「年代や、フィールドが少しずつ違う皆さんのお話はとても興味深かった」と語り、「イギリスでの、トップが話を詰めていくスマートな監督スタイルと日本のスタッフの機嫌を取る必要がある現場監督仕事とのギャップや、仕事をする上では契約書を作って、条件や内容について細かく詰めていく必要がある」と海外で学んだ人らしい意見も。さらに、日本政府による文化芸術支援にかける金額が低いことをあげ、「ムーブメントをおこさないといけない。まずは選挙に行かなきゃいけない。あんな投票率じゃいけない」と提案。
「女ならでは」を求められた経験についての質問には、ふくだ監督と金子監督はそういった経験がほぼなかったと話したが、佐藤監督や西川監督の世代ではそうした注文をよく出されていたと語っていた。岨手監督は「リアルな女性」を求められて脚本に反映させると、それは「男性にとって鼻持ちならない女」になると言われ、結果的に「もっといい女」にしてほしいと言われる、という話もでた。
「こういう集まりを定期的にしたい」「ずっとひとりで戦ってきたと思っていたけど、先をいく世代も後の世代も、同じように悩んだり苦しんだりしながら歩み続けてきた」。登壇した女性監督たちはそう語っていましたが、第1部の監督たちのあと、河瀨直美監督や荻上直子監督、西川美和監督、タナダユキ監督、大九 明子監督などの活躍もあり、前の世代の経験があって、今の女性監督の活躍があると思っていた私は、間に断絶があったとは思ってもいなかった。
最後に今ある問題について。やはりこの世代では仕事と子育ての両立の問題があげられ、長時間労働や、不規則な時間の撮影などのため、出産や子育てなど、ライフステージの変化に応じた選択肢がないことが大きな壁であることが出てきた。その解決のために活発に議論していく場が必要というのが大きな課題。これは、今も昔も変わらない。それでも少しは進歩があるのだろうか。
佐藤監督からは、映画を劇場で観ること自体が減り、その危機があげられました。今、映画文化をどのように守っていくか、継承していくかが問われている。
[第3部] ウィメンズ・エンパワメント上映作品の監督たち
登壇者:ジェイラン・オズギュン・オズチェリキ(トルコ)、オリヴァー・チャン(香港)、甲斐さやか
聞き手:アンドリヤナ・ツヴェトコビッチ(当部門シニア・プログラマー)
左から アンドリヤナさん、甲斐さやか監督、通訳さん、ジェイラン・オズギュン・オズチェリキ監督、オリヴァー・チャン監督
女性の悩みは万国共通
ウィメンズ・エンパワーエンパーメント部門部門で上映をした『徒花‐ADABANA‐』の甲斐さやか監督、トルコから『10セカンズ』のジェイラン・オズギュン・オズチェリキ監督、香港から『母性のモンタージュ』のオリヴァー・チャン監督
が登壇。
甲斐監督が女性であることでキャリアの積み上げに困難が続いたこと、ジェイラン監督は常に家族から自分のやりたい映画の仕事とは違う理想(妻となり、母となること)を押しつけられてきたこと。そして母になったオリヴァー監督は自身の実感を題材に映画を企画すると、最終決定する人たちがほとんど男性であるがゆえに、「それにお金を出す価値があるのか、育児が忙しいお母さんたちは映画を観る時間がないのでは」、などと言われて資金集めに苦労したことなどが出て、国を超えて、女性が負わされる役割や、社会の構造による不利益は変わらないことが語られました。
そして、ジェイラン監督が「女性が何かをしたり、自分を表現しようとすると魔女だと言われ、子どもを持っても魔女だと言われ、子どもを持たなくても魔女と言われる。何をしようと、しまいが魔女だと言われるんです。女性の自由というのは男性の権利を奪うと思われ、魔女と言われるんだと思います。トルコは家父長制が残る社会。親から反対され、監督になっても大会社からのサポートが得られない」と、トルコでの苦境を語った。
最後にアンドリヤナさんが「今回は東京都からのサポートがあり、この部門が実現しました。行政がサポートをするのは大きな意味がある。そして観客の皆さん、メディアの皆さん、女性監督の映画をどんどん観てください、どんどんサポートしてください。そうすることによって、この動きが前進していきます」と締めくくった。
[第4部] 女性映画監督の未来+Q&A
登壇者 : 1、2 、3 部登壇の日本の監督たち
聞き手 :児玉美月氏(映画文筆家)
最終パートは、映画文筆家の児玉美月さんが進行を担当。女性監督の繋がりやキャリアを中心に話し合いました。こちらは公式の動画もあります。
〇横のつながり
浜野監督は「私と山﨑さんは日本映画監督協会に在籍していますが、女性監督がやっと7人になった時、せっかく7人になったのだから、点でいるよりも線になろうということで、女性会員が集う【七夕会】を作りました。何度か開催しているうちに、日本映画界のさまざまな分野に女性が増えてきたので、もっと大きな面にしようと、【女正月の会】を開催することになりました。これらを通じて「日本の女性映画人たちは繋がれる」と実感しました。
25年続いた「女正月の会」でしたが、コロナ禍で中断中。
「私たちはフィルム世代ですが、フィルムを知らないデジタル世代の若い女性監督たちも増えている。フィルムとデジタルでは、現場の作り方も製作手法も異なっているから、もう一度女性監督たちが繋がっていけるような形を、こういう映画祭を機会に持てたらいいなと思います」と語る。
「西川さん、【女正月の会】を、もう一度お願いします!」と、ふくだ監督からとふられた西川監督は、「本当に考えたいです。まずはお花見とかやれたらいいかも。監督だけでなく、これまで女性スタッフと悩みを共有して助けてもらったこともあるので、垣根無く映画人が集まれる機会が生まれればいいのではと思います」と提案。
岨手監督があげた横の繋がりは、全国のミニシアターの興行主、宣伝、配給の方々が集うコミュニティシネマ会議。「監督だけをやっていて現場のことだけしか知らなかった。映画は循環しています。観客がいて、そこに向けた企画が立ち上がり、製作、仕上げ、宣伝、配給を経て、劇場があり、そこにお客さんが来る。その間にあるアーカイブも含めて、色々な部署によって映画は支えられている。若い監督たちも、そういう知る機会をもってほしい」と思っています。
〇それぞれのロールモデルや後進育成に関する縦のつながりについて
浜野監督は「映画監督は特殊な仕事だと思います。ひとりで立つべき孤独な職業だから、私にはロールモデルはいません。後進の育成については、私たちの世代に若い監督を育てる力はないので、てめぇで頑張ってついてこいとしか。それに若い監督たちも誰かに育ててもらおうなんて思っていないはず。自分を育てられるのは自分だけ」と語る。
金子監督は、【監督は孤独】に紐づけて「日本では、監督は映画の前面に出てきてしまう側面があると思うんです。メディアでの取り上げられ方も、監督だけが前面に出てくる感じも減っていけばいいのかなと感じています。たとえばプロデューサーや撮影監督のインタビューも増えていけばいいなと思っています」と発言。
〇映画製作と子育て
ふくだ監督「私は子育てだけをし続けることはできない人間だと自己分析しています。子育てはしんどくて、映画を作っている時間がないと自分を保てなくなる瞬間があります。映画製作は私が私として生きていくためでもあり、子どもが良く生きていくためのものでもあります。それらをなんとかつなげたい。それができなかった時代があることはわかっているので、だからこそ女性監督はこんなにも少ないんだと思います。でも、ここで私が子育てに専念してしまうと、また道が絶えていく。やり続けることでしかなせないものあと思います」と、強い思いで仕事続けていると語りました。
『映画をつくる女性たち』を手掛けた熊谷監督は、「自分が作った作品を観て改めて思ったことは、作り続けることがどれほど大変なことなのかをしみじみ感じています。一度映画を作ることを目指した人間には、色々な苦境が訪れます。お金のことも家庭のこともある。でも、皆それぞれに才能もあり、意志もある。そういう人たちが作り続けられる環境をどうやって作っていくのか。それは私たちだけではだめなんです。ここにいる皆さんの協力が必要です」と語ったが、彼女の「右手にカメラ、左手に子供」というキャッチフレーズは今の時代でも通じる状態。このジレンマ、あるいは壁を乗り越えていくための施策をどのように構築していったら女性映画人が仕事を続けられるのか。
〇好きな映画は?
熊谷監督『風と共に去りぬ』(1952)、山﨑監督『道』(1954)、西川監督『小さな私』(2024東京国際)、甲斐監督『春が来るまで』(2024東京国際)、ふくだ監督『踊る大捜査線』(1998)、岨手監督『稲妻』(1952)、金子監督『ペペ(2024東京国際)という、旧作から今東京国際映画祭上映作品まで多彩。そして浜野監督と佐藤監督は「自分の最新作が一番好き」だそうです。
〇action4cinema 日本版CNC設立を求める会の活動紹介
イベントの最後に、「action4cinema 日本版CNC設立を求める会」で活動している西川監督、岨手監督から、来場者に配布された「制作現場のハラスメント防止ハンドブック」「育児サポート勉強会」の説明が行われた。
西川監督:映画界のハラスメントが問題になっています。現場でも準備中に講習を受けるということになっているのですが、実際に講習を受けようとすると、数十万円の費用がかかります。小規模作品では、製作費からその費用を捻出するのが難しい。「制作現場のハラスメント防止ハンドブック」は、どんな人にもわかりやすい文章を心掛け、数ページ台本に刷り込めば、身近に、恒常的にスタッフに行きわたるものを目指しています。製作現場を健全化し、働きやすいものにしていくために作ったものなので、是非皆さんも目にしていただき、製作関係者がいれば勧めていただきたいと思っています
岨手監督:育児サポート勉強会は誰が中心というわけではなく、さまざまな部門のスタッフが集まって、定期的に行っています。俳優部、制作部、プロデューサーなど色々な人が参加しています。情報共有で解決することもあったり、悩みを語ることで楽になることもあります。女性だけでなく、男性の参加者もいますので、興味のある方は是非ご参加いただきたいと思います。
「制作現場のハラスメント防止ハンドブック」は、「action4cinema 日本版CNC設立を求める会」の公式HPから閲覧可能。こちらへ
*東京国際女性映画祭が2012年に終わってから12年。高野悦子さんは「女性映画祭が必要なくなることが理想」と常々おっしゃっていたので、最終回の時には、完全とは言えないけど女性監督も増え、ある程度、この映画祭の役目は果たしたのではと思った。そしてその後は、女性監督の作品が、商業分野でも増えて行ったし、スタッフにも女性が増えたので、20年前に比べれば、少しは女性も活躍しやすくなっていると思っていたけど、仕事と子育てや家庭との両立の厳しさは、さほど変わっていなかった。でも、映画界のハラスメントも含め、労働環境を改善していこうという活動が行われていることを知った。その流れのなかで、この「ウィメンズ・エンパワメント部門」が新たに出てきて、これはこれで意味があると思う。
しかし、現況の映画祭の中だけでも、映画を観ることや取材が手一杯で、身体が2つ、1日48時間くらいはほしい状況があり(笑)、観たい映画を観ることができなかったり、取材にいけないでいるのに、さらにこの部門が増えたことで、身体が3つくらいないとこなせないようになってしまっている(笑)。
また、上映される作品も、他の部門でウイメンズ・エンパワメント部門で上映されるのにふさわしい作品も上映されているので、作品としてこの部門が独立してあるのはどうなんだろうとも思う。このシンポジウムのようなものがあればいいような気もする。来年以降、この部門に作品ごとにゲストが増えると、東京国際映画祭本体だけで手いっぱいで、参加できそうもない。来年以降、作品ゲストが増えるのなら、せめて、日程を後半以降にずらすとかしてくれるとありがたいです。前半は中国映画週間があって、そちらに通っているので、東京国際映画祭の後半につなげてくれると参加できるのですが…。このままでは参加しにくいです。
写真・まとめ 宮崎 暁美