SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2024 国際コンペティションで上映された「トルコ映画『別れ』。報告がすっかり遅くなりました。
『別れ』 英題:Separation
監督:ハサン・デミルタシュ
出演:メフメト・アリ・イゾル、ハリル・デミル、チチェク・テクデミル、サルベスト・カルカン
2023年 / トルコ / 90分
*ストーリー*
1990年代、トルコ東部マルディン郊外のクルドの村。
7歳のアリーの祖父ハミットは、5年前に他界した祖母の墓に毎日白い花を手に通っている。
マルディンで再びクルドの奇襲から守るために戦闘が起きたとのニュースが流れる。
ある日、村長が家長の男たちを集め、政府から、政府軍につくか、村を去るか1週間で選べといわれたと伝える。
銃は持てないと、ほとんどが村を出ることを選ぶ。
©Hasan Demirtas
家を出る前日、祖父は夜中にお墓を掘り起こし、せめて一握りの骨をと包む。
20時間かけてイスタンブルに着き、伯父の家をめざす。
「長男のいるドイツに行くからそれまで泊めてほしい」と父。だが、ドイツ領事館に行くとビザの発行は停止中といわれる。結局、伯父が家を世話してくれる。
ある日、アリーが公園にいって、雨の中、家に帰ると祖父が亡くなっていた。
「村に連れて帰って、祖母の隣に埋葬しよう」と父・・・
https://www.skipcity-dcf.jp/2024/films/intl07.html
◆ハサン・デミルタシュ監督インタビュー

― 監督が何歳の時にマルディンを追い出されたのですか? その時のことを覚えていますか?
監督:7歳の時です。はっきり覚えています。家ではクルド語を話していました。
― 監督の生まれ育った村で撮影したのでしょうか?
監督:私の村ではないけれど、近くのeski kaleで撮影しました。
ー 撮影期間は?
監督:10日間です。イスタンブルの坂道の場面もマルディンの町で撮影しました。俳優をイスタンブルに連れていくのに費用もかかりますので。資金が4000ドルしかなかったので、自分で何役もこなしました。撮影も、人に頼むと支払いができないかもしれないので、自分でしました。
― 強制移住させられた時に、亡くなられたおばあさんの骨を持って出れなかったことが、本作のきっかけになっていると伺いました。
監督:小さい時に祖父から祖母の骨を持っていければよかったと一言聞いたことから映画を作りたいと思ったのです。祖父の一言が私を映画監督にしました。映画の中では、町を出る時におばあさんの骨を持って出ていくシーンを入れています。
― 映画を作りたいと思うような、影響を受けた映画があるのでしょうか?
監督:なんの映画も観たことがありませんでした。お祖父さんの一言で、いい教育を受けて、いい成績をとって、映画を作るんだと決めたのです。
―お祖父さんの一言で映画監督になったというのがすごいですね。
演じた方について教えてください。
監督:祖父と父役はプロの俳優です。子役はマルディンの村の子たちです。
私の父も村人の一人として出演しています。セリフはありませんが、声の綺麗なウズラの鳥は父のウズラです。

©Hasan Demirtas
―お祖母さんの肖像画が出てきましたね。
監督:祖母の絵はお祖父さんが貸してくれました。
― 絵の裏に空になったハチの巣がありましたね。
監督:偶然にもハチの巣がついてました。面白いと思って、映画に入れました。
― トルコでは、ハチの巣に入ったままの蜂蜜をよく売っていますよね。
監督:絵の裏のハチの巣には、もう蜂蜜はありませんでした。
― 「アデューレ」というクルドの歌が素敵でした。
監督:クルドの人が皆知ってる詩ではないのですが、100年ほど前のイランとの戦争の時に、兵士が妻に宛てて歌った詩です。
― クルド語が使えない時代もありましたが、今はクルド語も使えるし、このような映画も作れるようになってよかったと思います。
監督:ほんとによかったと思います。90年代にはクルド語が禁止されていましたが、今は使用が許されています。
イスタンブルに移住した時には、トルコ語は母語じゃないので話せなくて大変でした。今ではトルコ人にトルコ語を教えるほどになりました。
― 今は学校でクルド語も教えているのでしょうか?
監督:公立学校ではなく、クルド語はプライベートな学校で教えています。
― 私もクルド語ができるとよかったのですが。
監督:蕨には、クルド人が多いと聞きました。
― クルド人の新年「ネブロス」を祝うお祭りが、川口や蕨の公園で行われるのですが、何度か行ったことがあります。
ところで、ご両親はお元気ですか?
監督:両親は今、マルディンにいます。父は教会の飾り壁などを作っています。
父はイギリスで教会建築を学びました。
― マルディンには、様々な宗派の教会や、モスクがあって、素敵な町ですね。
マルディンで、『ペルシャン・バージョン』という映画を、アメリカ在住のイラン女性であるマリアム・ケシャヴァルズ監督が撮影しています。イランでの話をイランでは撮れないので、マルディンで撮影したとおっしゃってました。
マルディンのモスクで撮影したほか、郊外をイランの村としています。
監督:その映画は知りませんでした。
― 『消えた声が、その名を呼ぶ』(原題:THE CUT、ファティ・アキン監督)は、マルディンを追い出されたアルメニア人の話ですが、マルディンでは撮影していないようです。
かつては、東トルコには、クルド、アラブ、アルメニアなど様々な人が暮らしていた時代がありましたね。
監督:母方の祖母がアルメニア人で結婚するときにイスラームに改宗しました。
― 今後の計画は?
監督:次の映画の構想はもちろんあります。 最近、マルディンに映画学校を作りました。アメリカにいる学生とはオンラインで授業をしています。
― 次の作品も楽しみにお待ちしています。ありがとうございました。
★このインタビューの前に取材したQ&Aの内容です。
2024年7月15日(月)11時からの上映後 Q&A

監督:アリガトウゴザイマシタ。日本はとても大好きな国。小津監督の『東京物語』や、サムライの国。
司会(中西):作品を作られた背景は?
監督:私の祖父の話です。1995年に村を出たのですが、妻の骨を一緒に持って出ればよかったと聞いたのがきっかけです。
★会場から
― 考えさせられる映画でした。優秀なドキュメンタリー監督が初ドラマ作品をお祖父さんの話にしたことをもう少し詳しく教えてください。
日本でのクルド人の印象はよくありません。ここ川口には大勢クルド人がいるのですが。クルド人の何を理解することが大事でしょう? トラブルをなくすにはどうすればいいでしょうか?
監督:祖父の話をドキュメンタリーではなく、フィクションで語りたいと思いました。世界にいろいろな問題があるように、クルドにも問題があります。
90年代、トルコで禁じられていたクルド語も、今ではクルド語で映画をつくることも可能になったのが嬉しい。
日本にいるクルド人、それぞれに問題があると思います。日本でたくさんのクルド人を受け入れていただいたことに感謝します。
― トルコの東部から強制移住しなければならなかった人がたくさんいると知りました。私の知人も軍に追い出されました。どれくらいの人が追い出されたのでしょうか? 今も自分の村に戻れないでいるのでしょうか?
監督:1990年代に、東トルコの4万の村から、約100万人のクルド人が強制移住させられました。(注:数字については未確認) トルコ政府は誤りを認め、戻ることを認めました。多くの人が戻りました。その後、トルコ政府は強制移住のことに触れないし、金銭的な謝罪もしていませんが。
過去においてクルド語を話すことも禁止し、話したことで刑務所に入れられるケースもありましたが、今はクルド語で話せます。テレビでクルド語のチャンネルも一つあります。より良くなるようにと願っています。
― 監督のお祖父さんということは、孫のアリーが監督ということでしょうか?
牛や馬、鳥への思いは?
監督:面白い質問! アリーは私です。子どもの時、観てきたことに興味を持って、それがあって映画監督になりました。
動物については、子どもの時、クルドの村に住んでいた時、犬や牛や馬を飼っていましたが、村を去る時、売っていかなければなりませんでした。町には持っていけませんでしたから。町での生活は大変でした。家もなかなか見つかりませんでした。私の祖父と家族の物語です。
学校の教育を受け始めた時、トルコ語ができなくて、1年間、まったく話せませんでした。母がトルコ語の本を枕の下に置いて、頭に入るようにと祈ってくれました。その後、トルコで大学に行き、アメリカにも行きました。

― 素晴らしい映画でした。東部を舞台にしていますが、東部と西部では今でも状況は違いますか?
監督:文化、言語において違います。クルド語は印欧語、トルコ語はアジア系で、かなり違います。トルコ人とクルド人でベストを尽くして改善して共存しようとしています。自分は伝書鳩と思っています。西と東を繋ぐこと。それが私の映画製作者としての務めです。世界の人々に平和に暮らしてほしい。人を見る時に、いい人、悪い人、どちらもいます。クルド人、アメリカ人、日本人・・・という分け方でなく、その人がいい人かどうかで見てほしいと思います。
クルドの文化は私の心の中でとても大事です。
― 映画の中で、トルコ軍の要請に対して話す場面で、自然の中に真理があるという考えが伝統的にあると述べられていましたが・・・
監督:はい、私たちは自然から学んでいます。1990年代、トルコ政府から軍に入るか、移住するかと言われ、ほとんどのクルド人は軍には入りたくないと思いました。何人かが入りましたが、私たちは銃の扱い方も知りません。山に住んでいて、自然と共に暮らしていました。私たちは自然や動物を理解しています。

【国際コンペティション部門総評】白石和彌審査委員長
クロージングセレモニーの中での言葉:
ここ川口では、クルド人問題が起き、ネットにはクルド人に対するヘイトスピーチが溢れ返っています。Q&Aのときに、ハサン監督は「私は伝書鳩になってクルド人の生活、文化を世界中に届ける。それが役目だ」と言っていました。大切なのは相互に理解すること。どんな移民問題も、解決の糸口はそこなのだと思います。伝書鳩になって世界中に届けるというハサン・デミルタシュ監督の気持ちに心を打たれました。そうした映画が、埼玉県川口市で行われる映画祭のコンペティションに選定されることの意義を、僕はSKIPシティDシネマ映画祭の静かなメッセージとして捉えました。こういう作品を上映することにも、映画祭の意義はあると思っています。
*ストーリー* 少し長いバージョン

1990年代、トルコ東部マルディン郊外のクルドの村。
7歳のアリーの祖父ハミットは、5年前に他界した祖母の墓に毎日白い花を手に通っている。
アリーの年の離れた兄は、祖母が亡くなった年、ドイツに出稼ぎに行って不在だ。
一日荒れ地で働いてぐったりした父が、アリーに「背中を踏んで」と頼む。
「♪愛しいアディーレ♪」 お墓でカセットテープを聴く祖父。
マルディンで再びクルドの奇襲から守るために戦闘が起きたとのニュースが流れる。
ある日、村長が男たちを集める。
政府から、政府軍につくか、村を去るか1週間で選べといわれたという。
男たちが集まり、数珠を手にチャイを飲みながら話し合う。
「僕らは動物や鳥の声を聴く暮らしを選ぶ」と、ほとんどが村を出ることを選ぶ。
父が家族に「数日内にここを出ないといけない。まずはイスタンブルへ。そのあと、長男のいるドイツへ行く」と伝える。
荷物の整理をしていたアリーは、祖父の描いた絵の裏に空になったハチの巣がついているのを見つけ、母に見せる。
馬は、村に残る者に半値でひきとってもらう。
祖父は夜中にお墓を掘り起こし、せめて一握りの骨をと包み、スーツケースにそっと入れる。
村長に別れを告げ、車で去る。
村長も2週間後には出るという。
マルディンの町に着き、崖地に広がる町を見上げる。
バスに乗りマルディンの町を去る。
20時間かけてイスタンブルに着く。
階段をあがって伯父の家をめざす。
「ドイツに行くからそれまで泊めてほしい」と父が伯父に頼む。
ドイツ領事館に行くと、長蛇の列。ビザの発行は停止中といわれる。
結局、伯父が家を世話してくれる。
父のウズラが鳴かない。死んではいなかった。
アリーが公園にいって、雨の中、家に帰ると祖父が亡くなっていた。
「村に連れて帰って、祖母の隣に埋葬しよう」と父。
棺に入れ、ロバ車で運ぶ・・・
★余談★
私にとっての映画祭初日である7月15日、11時からのトルコ映画『別れ』を目指して、川口駅10時発の無料シャトルバスに乗車。もう満席で立っている人も多々。座っている外国人の方のお顔、知っている方のような気がして、じっと見つめてしまったら目があって、席を代わってくださいました。
なんと、トルコ映画『別れ』のクルド人の監督ハサン・デミルタシュさんでした。
Webサイトでお顔を見ていたから、確かにどこかで見た顔だったのですね。
立たせてしまい恐縮しながら、お話しました。
隣の隣にシネジャの千絵さんが座っていて、映画祭パンフレットの『別れ』のページを開けてくれたので、そこに映る東トルコのマルディンの写真をみながらお話しました。
映画はまだ観る前でしたが、歴史ある素敵な街マルディンに行ったことがあるので、話がはずみ、幸先のいい映画祭スタートでした。
景山咲子