『母たちの村』 原題:Moolaade
監督:ウスマン・センベーヌ / Ousmane Sembene
2003年/セネガル=ブルキナファソ=モロッコ=チュニジア=カメルーン=フランス/125分/バンバラ語、フランス語 字幕:日本語
予告編: https://youtu.be/aXjE0nIJsbQ?si=mkc_1oM0WOnKlqYe
2006年に今はなき岩波ホールで公開された、「アフリカ映画の父」と呼ばれるセネガルの名匠ウスマン・センベーヌ監督の遺作。19年ぶりにリバイバル上映。
ある日シレ家の第二夫人コレのもとに、4人の少女が割礼から逃げてきます。
割礼が原因で二度も死産し、ようやく生まれた娘には割礼させなかったコレは、少女たちを“モーラーデ(保護)”しますが…。
今もアフリカを中心に世界各地に残る”女性性器切除(FGM/C)”廃絶を願いつつ、二つの伝統的慣習を対比させた見事な作品です。
(藤本さんからの案内文)
◆ストーリー
西アフリカの小さな村。 シレ家の第二夫人コレは、第一夫人ハジャトゥ、第三夫人アリマや子どもたちと暮らしている。
ある日、太鼓の音で少女たち6人が割礼を前にいなくなったと知らされる。 そのうちの4人がコレの元にやってくる。 コレが自分の娘の割礼を拒否していたのを知って、「保護」を求めて来たのだ。 コレは家の入り口に縄をかけ「モーラーデ(弱いものを保護すること)」を宣言する。 始めたものが終わるというまで、この聖域には立ち入ることができない。 少女たちはこの中にいる限り安全なのだ。 しかし割礼師や少女たちの母親が談判にやってくる。 割礼は古くからの風習で、受けないものは不浄で結婚できないとされている。 コレは割礼のおかげで難産し、2度も子供を死なせていた。 3度目は帝王切開でやっと産むことができ、この娘の割礼を拒否し続けているのだ。
女たちが頭上に水がめを載せて、モスクの前を歩いていく。 木のくいがいっぱい飛び出たモスクは、世界遺産に指定されているマリ共和国トンブクトゥのモスクと同じタイプの、西アフリカでよく見られる日干し煉瓦で造られたスーダン様式。 のどかな風景だが、水汲みという重労働が女たちに課せられていて、一夫多妻は労働力確保のためかと思いたくなる。 本来、イスラームが一人の男に4人まで妻を娶ることを認めたのは、イスラーム初期の聖戦で男たちが数多く戦死したための方策であったはずだ。 イスラームが各地に伝播するうちに解釈が違っていたり、本来の宗教の教義と、その土地の因習が交じり合い、あたかもそれがイスラームの定めであるかのように扱われていたりしていることは実に多い。
本作では女子割礼が神の定めたこととして、村の長老たちは絶対的権力をもって執り行っている。 しかしある日、女たちはラジオを聴いていて、「メッカに巡礼している女たちは割礼していない」という指導者の言葉を耳にする。 ラジオを取り上げ焼き払う長老たち。 けれども、指導者の言葉というお墨付きを得た女たちは、女子割礼廃止に向けて立ち上がる。 エンディングに高らかに唄われる歌の歌詞「割礼のことは書かれていない」とは、もちろん、「コーランに書かれていない」という意味。 女子割礼に苦しむ女たちに、安心して反対運動を起こしなさいとエールをおくっているようである。
本作には、女たちだけでなく、悪しき因習から立ち上がろうとする男たちも描かれている。 パリ帰りの村長の息子、長兄の命令で妻に鞭を振るいつつも妻に理解を示す夫…。 男も女も共に意識を変えていかなければ社会は変らないことを訴えているのであろう。
もう一人、際立った登場人物が「兵士」と呼ばれている商人の男。 普段、村人相手に暴利をむさぼる商売をしているが、割礼廃止に立ち上がった村の女たちの味方をする。 そのために長老たちによって葬りさられるのだが、この男、国連平和軍に従軍していた折りに、高官が給料をピンはねしていることを口外したために刑務所送りとなった経験があるという人物だ。 監督はアフリカの伝統社会に一石を投げているだけでなく、国際社会に向けても、ぴりりと批判の言葉を発していて、喝采をおくりたい。(咲)
☆2006年公開当時のシネジャ作品紹介より抜粋
★トーク
2/20(木)18:55上映後
【テーマ】 《女性性器切除(FGM / C)は誰のため? ― 「宗教」と「開発」二つのナラティブをめぐって》
【ゲスト】 嶺崎寛子さん 成蹊大学文学部 教授

専門は、エジプト。2000年から約5年、エジプトで文化人類的な調査を行った。
西アフリカは専門外で、先月初めて西アフリカのガーナに調査に行った。
エジプトは、FGM/C率の非常に高い地域。
FGM/C 割礼は、地域によって違う。儀礼も中身も意味も違う。
FGM/Cは、欧米によって、排除しないといけない遅れた有害な文化的慣行として扱われてきた。
イスラームに基づいた習慣と信じている人もいるが、エジプトのキリスト教徒もしている。

「女子割礼」と、現地では普通にいう。廃絶運動をしている人たちによって、1990年代に、FGM/Cという言い方になった。“cutting”という言葉は、言い過ぎだと思う。
ヴェールが強制されるのは、おかしい。自分の意志で被るのは、抑圧ではない。
女子割礼に関しても同じ。
『母たちの村』は、多層的、寓話的。
女子割礼をめぐる立場は多様。性別、経験、教育程度、権力関係などが影響している。
映画の中では、「あの儀式」といっている。
フランス帰りのエリートである村長の息子が保守的。

一方で、欧米的価値観では批判の対象である一夫多妻が、この映画では女性同士の連帯として肯定的に描かれている点が興味深い。
女子割礼、元々はアフリカの文化、
映画の中の割礼を施す女性たち。どこかからやってきて、割礼でお金を得ている。
別の仕事を作らないと排除できない。
宗教に基づくものなら、やめるのは簡単。
スーダンでは、FGM/C廃絶会議。男性たち、「俺たちの大事な文化」
ヴェールにしても割礼にしても、当事者の気持ちを考えて語るべき。
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トークの中で、WHOが定めるFGM/Cの4分類についても、具体的に図解付きで解説してくださいました。
実に明快かつ詳細な解説でした。
報告:景山咲子
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