ヤンヨンヒ&モーリー・スリヤ(黒澤明賞受賞)対談

●ヤンヨンヒ、モーリー・スリヤ_R.JPG
左からヤンヨンヒ監督、モーリー・スリヤ監督


ヤンヨンヒ監督&モーリー・スリヤ監督対談

国際交流基金と東京国際映画祭の共催企画「交流ラウンジ」で10月31日、『ディア・ピョンヤン』(2005)、『かぞくのくに』(2012)、『スープとイデオロギー』(2022)などで知られる梁 英姫(ヤン ヨンヒ)監督と、2017年『マルリナの明日』が世界的に高い評価を受け、2017年の第18回東京フィルメックスでは最優秀作品賞『殺人者マルリナ』(フィルメックスでの題名)を受賞し、今回、グー・シャオガン監督と共に黒澤明賞を受賞したインドネシアのモーリー・スリヤ監督の対談が行われた。
『マルリナの明日』http://www.pan-dora.co.jp/marlina-film/

2人は20年の東京国際映画祭でリモートでの対談をしているが、3年後の今年、念願の初対面を果たした。ヤン監督は、昨日『マルリナの明日』を観て興奮した状態で来ましたと語っていた。

3年ぶりの対談 コロナ禍を振り返った

ヤンヨンヒ監督:前回の対談時、『スープとイデオロギー』の編集を始めた頃で韓国に滞在していました。母の介護もあったので時々帰国していたけど、2年くらい韓国にいました。その間に母は亡くなりました。国籍は韓国なのに暮らしたことがなかったので、この滞在では、韓国の映画業界や社会を深く、いいところも悪いところも見ることができました。

モーリー・スリヤ監督:2000年に撮る予定だったけど、コロナ禍のインドネシアではスタッフを集めることが困難で、新作「This City Is a Battlefield」の撮影を延期。その後『マルリナの明日』に関連したプロジェクトをアメリカで製作できることになり、翌年に渡米して別の作品を撮影しました。アメリカの映画産業はシステマティック。組合もしっかりしているし、腕のあるスタッフをすぐにみつけることができた。みんながチャンスを狙っていて、それが映画業界のアメリカンドリームと言えるのかもしれません。その後インドネシアに戻ったけど、コロナ前と同じ状況には戻っていませんでした。

インドネシアの映画事情ですが、1998年まではスハルノ独裁下で、死に体と言っていいくらい衰退していました。検閲も厳しく公開も難しい状況。今は盛り上がっているけど、まだまだ赤ちゃんのような業界。組合もあるけど、機能していなくて模索状態。

ヤン監督が日本も韓国も大規模予算の商業映画に女性監督が登用されることはほとんどない現状を語ると

スリヤ監督:インドネシアにはスタジオシステムも配給会社もないので、全てがインディペンデント。全国公開になっても、島が7000もあるのでプロモーションが難しい。そして、ホラー映画が多く、全体の半分くらい。女性監督の視点からのホラー映画はひとつのジャンルになっていて商業的にも当たるんです。

映画と配信の両立の難しさなどについて意見交換をした上で、後進へのアドバイスを求められたヤン監督は、「自分を信じるド厚かましさも才能。それが揺らぐと絶対に止まる。撮影が終わっても完成させられない、公開が決まっていても流れるなどいろいろな理由があって着手するのが恐ろしくなる作業だが、自分を信じ、信じられるスタッフとどう出会えるか。そのための精神力、体力も必要」と持論を展開。続けて、「小さな発信でも地球の裏側まで届くという意識を持って、踏ん張るしかない」とエールを送った。

スリヤ監督は、これまでの3作品の作風が全て違うという質問を受けたが「2度同じことはしたくないという思いはあるが、自分としてはそんなに変わっていない。映画学校時代はスタンリー・キューブリック監督にあこがれ、スタイルを踏襲しているところはある。彼の作品のジャンルも多岐にわたっているが、一つの同じ声があると思う」と解説。一つの同じ声の真意も聞かれたが、「言葉にできるなら映画にする必要はないわよね」と煙に巻いた。そして、“パート3”の開催を約束し、二人で固い握手を交わした。

この記事へのコメント