イスラーム映画祭8 『太陽の男たち』  岡真理さんから学ぶ いまだに叶わないパレスチナの人々の願い (咲)

2023年で1948年のイスラエル建国による“ナクバ(大災厄)”から75年を迎えるにあたり、イスラーム映画祭8で、あらためて「パレスチナ」が取り上げられました。

『太陽の男たち』は、1972年にベイルートで爆殺されたパレスチナ難民の作家、ガッサーン・カナファーニー(1936-72)の代表作の映画化にして、“アラブ映画史における最重要作”の1本。
難民として生きるパレスチナの人たちの悲哀をずっしり感じさせてくれる一作。
それは今も変わらない現実であることを突き付けられます。


《ガッサーン・カナファーニー没後50年特別上映》

『太陽の男たち』 原題:Al-Makhdu'un 英題:The Dupes
監督:タウフィーク・サーレフ Tewfik Saleh
1972年/シリア/アラビア語/107分
★劇場初公開

*物語*
イラク南部の港町バスラ。ティグリス河とユーフラテス河の合流するシャット・エル・アラブの河畔で、それぞれにクウェイトを目指す4人のパレスチナ難民の男たちが出会う。知人からクウェイトで一儲けできると聞いた一家の長アブー・カイス、失踪した兄に代わって親兄弟を養わなければならない10代半ばのマルワーン、政治活動をして指名手配されているアスアド。3人は、難民として暮らすヨルダンから、なんとかクウェイトに密入国して稼ごうとバスラまでやってきたのだ。その3人に、クウェイトの金持ちが所有する給水トラックの運転手を務めるアブー・ハイズラーンが、空っぽになった帰り路の給水トラックでの密入国を持ちかける。4人の乗るトラックは、灼熱の沙漠をクウェイトに向けてひた走る。イラク側の国境でアブー・ハイズラーンが出国手続きする間、3人は給水タンクの中に身を潜める。我慢の限度6分程で手続きを終え、今度はクウェイト側の国境を目指す。もう一度、給水タンクに潜む3人。入国手続きを急ぎたいアブー・ハイズラーンを、顔馴染みのクウェイトの役人たちはバスラで遊んできたのかなどとからかい、なかなかスタンプを押してくれない・・・


30年以上前に、アラブ文化協会の上映会などで、3回観ているのですが、いずれもスクリーンが小さかったので、今回大きな画面で観ることができたのは大きな喜びでした。
かつて日本で上映された時の事情をよく知っている方から、当時のフィルムは行方不明になっていたので、どこかからか見つかったのでしょうか?との問い合わせがありました。主宰の藤本さんに伺ったところ、アメリカのアラブ系映画会社がかつてのフィルムをデジタル修正したものをDCP化して上映するので、かつて日本で上映されたものとは別物。字幕も新しく付けたものとのこと。

私の記憶には、灼熱の太陽のもと、ひたすら沙漠を走るトラックと、金満クウェイトの役人たちがネチネチと運転手をいびる場面と、衝撃のラストシーンしか残っていませんでした。久しぶりに観て、映画の前半で、4人のパレスチナ難民の男たちのそれぞれの事情が丁寧に描かれていたことに驚きました。(まったく記憶が飛んでました!) 土壁の家が並ぶバスラの町らしい町並みや、ナツメヤシのたなびく風情も楽しめました。後半の太陽が照り付ける煉獄のような場面との対比が強烈でした。



《「壁を叩け!」―イスラエルが恐れたペンの力》
【ゲスト】岡真理さん(京都大学大学院人間・環境学研究科教授/アラブ文学者/『アラブ、祈りとしての文学』『ガザに地下鉄が走る日』著者)

2/23(木)15:30からの『太陽の男たち』上映後,アラブ文学研究者の岡真理さんによる詳しい解説が1時間にわたって行われました。 
冒頭、岡真理さんより、「藤本さんから『太陽の男たち』を昨年のイスラーム映画祭7で上映予定と聞かされ、新訳を光文社より2023年に出版予定なので、1年待ってもらえませんかとお願いしたのですが、まだ新訳ができていません」と明かされました。
藤本さんから、「出来上がっていれば、この会場で販売することができたのですが」と補足ありました。 近い将来、新訳が出版されるのを楽しみに待ちたいと思います。
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黒田寿郎氏による旧訳:1978年 河出書房から現代アラブ小説全集として出版された中に収められていたが、絶版に。その後、河出文庫として復活。

ガッサーン・カナファーニー(1936-1972)
1936年 アッカで生まれる。当時、歴史的パレスチナは、国連委託統治領という名のイギリス領だった。
1948年 12歳の時、ナクバ。難民となってシリアへ。

*補足説明*
1947年11月29日 国連総会でパレスチナ分割。
ホロコーストで生き延びたものの、25万人が行き場のない難民に。
ヨーロッパの反ユダヤ主義のツケを、ホロコーストに関係のないパレスチナに。
できるだけパレスチナ人を排除するという「パレスチナの民族浄化」が計画的になされ、パレスチナ人の集団虐殺が各地で起こった。

難民キャンプのテントが、だんだんブロックの家になっていったが、パレスチナ人からは、ブロックの家だと定住することになるからと反対する気持ちが強かった

1952年 UNRWAの学校で美術を教える(16歳)
      ダマスカス大学 アラブ文学科入学
      ジョージ・ハバシュ(PFLP創設者)と出会う
      MAN(アラブナショナリズム運動)に参加
      マルクス・レーニン主義に傾倒

1955年 MAN活動を理由に退学処分(19歳)
1956年 クウェイトへ  教師、ヨルダンのMAN系新聞ラアユ紙の記者(20歳)
1960年 ベイルート(レバノン)へ  MANの機関紙ホッリーヤ(自由)紙の記者に
1961年 デンマーク人のアニ・フーバーと結婚(25歳)
1967年 第三次中東戦争 PFLP創設、これに参加(31歳)
1969年 PHLPの機関紙ハダフ(目標)の編集 (33歳)
1972年 ベイルートで暗殺


◆カナファーニーが追及したテーマ:
・人が《難民》と「なる」、とはいかなることなのか。
 「悲しいオレンジの実る土地」

・人が《難民》で「ある」、《難民》として生きる、とはいかなることなのか。
 「戦闘のとき」「路傍の菓子パン」「イードの贈り物」

・人が《難民》ではなくなる、とはいかなることか。
祖国を持てればいいのか?
 「ハイファに戻って」

 
映画『太陽の男たち』
小説(1962~63年 26歳の時に執筆)のアラビア語の原題は、「欺かれし者ども」だったが、同名の映画が以前にあった為に使用できず、映画のタイトルは『太陽の男たち』となった。
太陽は、日本的にはポジティブなものだが、現地では違う。

作中、繰り返される「10年」
ナクバから10年経った1958年頃が舞台。

クウェイトを目指す3人の難民の男たち
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アブー・カイス(初老)
アスアド(青年): ヨルダンで政治活動をして指名手配
マルワーン (10代半ば):失踪した兄に代わって家族を養わなければならない

給水トラックの運転手: アブー・ハイズラーン
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ナクバの時の戦闘で男としての機能を失っていて、パレスチナ人が民族的に去勢されたことを表している。

なお、アブーは、「父」「親父」の意。
 アブー + 長男の名前
 アブー + ニックネーム 
  ハイズラーン(竹竿)は、背が高いのでつけられたあだ名。

「国境」など存在しないがごとくに、国境を超えられる者たちと、「国境」が立ちはだかり、それを超えることができない、あるいは、それを超えようとして、国境と国境のはざまで息絶える者たち・・・

クウェイトの金持ち
鷹狩に客人を引き連れ、クウェイトとイラクの間を、国境など存在しないかのように行き来し、豪遊する。

パレスチナ難民
国境を超えるために、トラックのタンクの屋根の上で砂漠の暑熱に耐え、結局、灼熱地獄と化したタンクの中で死ぬ。
砂漠に放置され、灼熱地獄と化した給水タンクで絶命し、ゴミ捨て場に打ち捨てられる難民たち = 当時のパレスチナ人(=難民)が置かれた状況のメタファー

クウェイトを目指す3人の難民の男たち
 それぞれに理由は異なるが、なぜクウェイトに行くのか?
 今のこの苦境を脱したい
  = 自分の家族の経済的な生き延びや、自分自身の(=個人の)生を生きたい(エゴイズム)
 クウェイトに行けばなんとかなる、ましになるだろう
いずれも、自分や家族の個人的、私的な「生き延び」のため

◆原作と映画の決定的な違い
原作ラストのアブー・ハイズラーンの叫び
「なぜ、お前たちはタンクの壁を叩かなかったのだ!? なぜ、なぜ、なぜ」
作者がもっとも訴えたかったこと この叫びに凝縮
自分たちの存在を世界に訴えない限り、難民キャンプで難民として朽ちていくしかない

個人的な、あるいは私的な生き延びだけを目的にしている限り、お前たちは、難民キャンプという、国境と国境のはざまのノーマンズランドにも等しい空間で、世界から忘れ去られ、死んでいくしかないというメッセージ。

イラクとクウェイト国境のはざまのノーマンズランドと、そこに放置され、焦熱地獄と化したトラック
 = 難民キャンプと、そこに難民として生きていることのメタファー

作者のメッセージ: 壁を叩け!
難民たち個々が、その個人的境遇の困難から脱出することしか考えないなら、待っているのは、民族としての「窒息死」だ。
世界に向かって、ここに、世界から忘れられ、焦熱地獄の中に打ち捨てられている、パレスチナ難民が存在する、ということを、訴えろ!
一人ひとりが、パレスチナ人という民族の歴史を切り開く政治的主体となれ!

映画では、給水タンクの中にいる3人がタンクを叩くが、外の音にかき消されて、訴えが届かない。
原作が書かれたのは、1963年。
映画が作られた1973年までの10年の間に変化したパレスチナ人の状況が反映され、「アラブ人」に対して、パレスチナ人の声に応答することを求める作品となった。

作品の宛先の違い:
原作:著者がパレスチナ人同胞に政治的主体化を求める
映画:アラブ人に対して、パレスチナ人があげている声に応答することを求める。
     タウフィーク・サーレフ監督(エジプト人) 制作:シリア

◆原作から60年、映画から50年後の現在
イスラエル: 主権をもったパレスチナ国家の樹立を一貫して否定
・政治的主体たるパレスチナ人を再度《難民》に鋳直す (Politicide)
・ガザの完全封鎖(2007~) 人為的に人道危機を創り出すことで、パレスチナ問題(政治問題)を《人道問題》に還元

報告:景山咲子





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