監督:メフメト・アキフ・ビュユックアタライ
出演:ゼイジュン・デミルオヴ、デニズ・オルタ、ジェム・ギョクタシュ、ミカエル・バイラミ、フェルハット・ケスキン、ファリス・ユズバシュオール、カイス・セッティ
2019年、101分、ドイツ語・トルコ語/ドイツ語・日本語字幕付
*物語*
ドイツ、ハーゲンの町。
オライは、妻ブルジュと喧嘩し、留守電に「タラーク、タラーク、タラーク」と3回言って切る。この言葉を3回言ってしまっては、離婚することになってしまう。ブルジュのところに行って、「留守電を聞かないでくれ」と言うが、返事はない。
オライは、モスクの聖職者ビラルに「タラーグと3回言ってしまった」と相談に行く。
「3か月別居しろ」と言われ、オライは、ケルンの友人のところに行く。ケルンのイスラームコミュニティで居場所を見出し、リサイクルの仕事にも就く。そんなある日、妻が突然オライのところにやってくる。優先するのは妻への愛なのか、信仰なのか、オライは決断を迫られる・・・
「塀の中も外も同じ。どちらにいても何かに束縛されているが、イスラームで解放された」という冒頭の場面で、オライは刑務所にいたとわかります。
「更生施設では更生されなかったけれど、イスラームが自分を更生させてくれた」とも語っていて、信仰によって自由になれた人物を描こうとしていることが、まず伝わってきました。
結婚式の場面が出てきて、踊っている中には、スカーフを被った女性もいれば、肌を出したドレスの女性もいます。オライの母親もローズピンクの派手なドレスで肌も出していて、ドイツに移民してきたトルコ人も、イスラームに対する考え方が様々であることがわかります。
そんな中で、オライは夜明け前にも、ちゃんと起きてモスクにお祈りに行きます。
少年たちがクルアーンを学んでいる様子も映し出されます。
上映後に、ドイツにいる監督とのリモートQ&Aが開かれ、若い監督がドイツにおけるムスリム移民の中にも様々な人がいることを描きたかったことがわかりました。
メディアで報じられるステレオタイプなムスリムのイメージでなく、自分自身が知っているムスリムの姿を描きたかったと語っていたのが印象的でした。
それにしても、オライが強い女性二人(妻と母)から逃げ出したというのが、逆に女性礼賛になっていて痛快でした。それもまた現実! (咲)
◆メフメト・アキフ・ビュユックアタライ監督 Q&A
11月20日(金)15:20からの上映後、リモートで開催されました。
若くてハンサムな監督。
監督:リモートですが、皆さんとお会いできて嬉しいです。遠い国のあまりなじみのない宗教を巡る映画がどのように受けとめられたのか関心を抱いています。
― なぜ、この映画を作ろうと思われたのでしょうか?
監督: どんな映画製作者、そしてあらゆるアーティストも、誰しも作る一番の動機は個人的なものだと思います。私自身の経験や、私がどのようにいろいろなことを主観的に見聞きしているかを観客の皆さんと分かち合いたいと思ったのが、本作を作った一番の動機です。そこに、政治的な意味もあります。メディアで一般的に報じられているステレオタイプ的なムスリムのイメージがありますが、違和感を覚えていて、私の知っているムスリムの実体が反映されていないと感じているからです。報道されているものと違うものを見せたいと思いました。だからといって、広まっているイメージに闘いを挑むのではなく新しいイメージを見せたいと思いました。
― タラークという言葉について教えてください。また、離婚した後に、同じ相手と再婚することは可能でしょうか?
監督:「タラーク」は、直訳では「突き放す」という意味です。イスラームにおける離別の言葉です。ただし、どの国に住んでいるかで解釈が違ってきます。トルコではタラーク3回で離婚は成立しません。サウディアラビアではいまだに生きています。インドでは最近、タラーク3回での離婚は禁止されました。
タラークを3回言ってしまうと、1回離婚して別の人と結婚しないと、同じ人とは再婚できないというのが、伝統的なイスラームの教えです。抜け道はあって、離婚したあと、別の女性と偽装結婚して、3回タラークと言って離婚して、同じ相手と再婚するということもできます。
イスラーム世界は広いので、解釈は多種多様です。インドネシアとヨーロッパの中のボスニアのムスリムでは全く違います。 タラークといえばこれですという決まった解釈はありません。この映画の中でも、ハーゲンとケルンでさえ解釈が違います。
― オライが市場でコソボ出身の青年と知り合い仲良くなりますが、ムスリムどうしで自然に友達になれるのでしょうか? 宗派の違いは関係なく親しくなれるのでしょうか?
監督:映画の中でのオライと若者の友情は、二人がイスラーム教という共通項があったからでは必ずしもありません。二人とも差別を受けているどうしで結ばれている友情ともいえます。
若者はロマで、ヨーロッパのロマの人たちは差別されているので、ロマどうし強く結ばれています。
イスラームにもいろいろなグループがあって、友好的な関係になる場合もあれば、対立して内戦にまで発展することもあります。宗教以外に、政治やいろんな要因で考えが違ってきます。これがイスラームだというイスラームはないのです。世界には、16億のイスラーム教徒がいて、私もムスリムですが、両親にとってのイスラームとも違います。それこそがイスラームの特徴だといえます。もともと、教会の絶対的な権威に抗うために生まれたのがイスラームです。自分なりの解釈で、自分と神との関係を結ぶことができるという思いでできたのがイスラームです。自由であるという一方で、解釈があまりに多様なために、それがマイナスの方向にいってしまって対立を生むこともあります。
― トルコ系ドイツ人の映画では、ドイツ社会に溶け込んだ人たちを描いた映画もあります。
疎外感を覚えてイスラームに拠り所を求める人も多いというのが今のドイツでしょうか?
監督:オライはドイツのムスリムの側面を現しています。差別を受けて馴染むことのできなかった人物です。社会的な敗者となったトルコやアラブの人もたくさんいますが、ムスリムだからというわけでは必ずしもありません。貧しさから抜け出せなくて敗者になってしまった人たちです。私の両親は学問を修めて階級をランクアップしました。宗教を拠り所にせず別の向き合い方をしています。一方で、ムスリムだから差別されていると思い込んでる人たちもいます。そういう人たちが、反発し、反抗することでエンパワーしていくということもあります。
― エンディングがオープンでした。オライの決断は、妻のもとに戻るのか、イスラームのコミュニティに戻るのか?
監督:正直言って、脚本を書いているとき、配給会社がイメージしていたようなオライの決断、つまり愛をとるのか信仰をとるのかという二者択一の決断は私の意図ではないと思いました。自分自身の自己像のどちらを取るかの決断です。ハーゲンにいるときのオライは鏡に見出したのは仕事もなく、二人の強い女性に負けている弱い自分。ケルンでは、イスラームコミュニティの中に居場所を見出して、仕事も見つけた強い自分を鏡に見出します。彼は自分自身どちらが自分らしく居られるかを考えて、最終的にケルンでの信仰を選びます。
オライは、なぜこんなに不安になるのか? 男らしさのイメージをどう守るかという危機のようなものを感じているのです。彼が育った家父長制の中で作られた強い男のイメージが、ハーゲンでは強い女性たちに負ける思い。逃げるようにしてケルンに行きました。自分を肯定できるケルンを選びます。ハーゲンの聖職者からは戻ってもOKだと言われていたので、戻ることも可能でした。宗教を巡る決断ではなく、彼の心理を巡る決断です。女性が強くなって、オライはついていけないのです。
― 映画の中で言語が入り混じっていました。現実的なものでしょうか?
監督:演出以上の現実があります。ドイツの移民社会では、もっと多言語で、トルコ語、アラビア語、ロマの言葉、セルビア語・・・と、いくつも交じっているのが現実です。実際、いくつもの言葉が入り乱れています。若者たちはドイツ語に自分たちの言葉を交えて話しているのが日常です。多言語であることが故郷の一つであり、疎外の形でもあります。白人たちは、この中に入ると言葉が通じなくて戸惑います。多言語は豊かなものを生み出しているのが魅力だと私は思います。映画の中で、俳優たちは、それぞれの母語で話しています。
― 映画にはムスリムしか出てこなかったのですが、現実に多数派のドイツ人世界と断絶しているのでしょうか?
監督:分断や溝は、文化間よりも階級間の方にあると思います。知識層と労働者層、その溝の方が大きいです。労働者階級の中にも宗教や文化による違いがありますが、上の階級との分断の方が大きいと思います。この分断や溝はマイナスであるとされていますが、必ずしもマイナスではなく、豊かさの表れではないかと思っています。訪れてみれば、非常に豊かな世界であることがわかるのですが、なかなか入ってみないというのも現実だと思います。
ここで時間がきて、Q&Aは終了。
大きな拍手。
監督:映画をご覧いただき、多くの質問をお寄せいただき、お礼申し上げます。 9000キロ離れていますが、熱は伝わってきました。ありがとうございました。
まとめ:景山咲子
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