『ベイルート - ブエノス・アイレス - ベイルート』
2012年/アルゼンチン/84分 /スペイン語・アラビア語・英語
監督:グレイス・スピネリ、エルナン・ブロン / Grace Spinelli、Hernán Belón
原題:Beirut Buenos Aires Beirut
ブエノス・アイレスで暮らすグレイスは、ある日、大伯母から、彼女の父(グレイスの曾祖父)が母が亡くなった後、子どもたちを置き去りにして、故国レバノンに帰り、そこで余生を過ごし他界したことを聞かされる。
グレイスは15歳の時、テレビでイマームが祈るのを見ていたときに、母から曽祖父はアラブ人でムスリムよと聞かされていた。
やがて大伯母が亡くなり、グレイスは、曾祖父の軌跡をたどり、ついにはレバノンに赴く。
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今は移民局となっている旧移民ホテル。
グレイスは資料室に曽祖父の入国記録を探しにいく。
係りの男性も移民の子孫。
1900年頃、入国。
チェラさんが整理した膨大なファイル。
移民が多かったのは、イタリア、スペイン、フランスの順。
入国した時に、名前をどう記載したか・・・
言葉が違うため表記を間違えていることもある。
古いファイルは、煙草の巻紙に使われてしまったものもある。
結局、曽祖父の入国記録は見つからない。
曽祖父は60歳のときに妻が亡くなり、祖国で死ぬとレバノンに帰国。
レバノンから送られてきた手紙。中には読まれなかったものもある。
アラビア語の教師に手紙を訳してもらう。
1975年 最後の手紙。(注:レバノン内戦勃発の年)
4人の子どもたちに宛てて、「95歳になった。しばらく手紙をもらってない。手紙がほしい。妻のハディージャからもよろしく」と書かれている。
祖母は母親がカトリック。ムスリムの父に内緒で洗礼を受ける。
父は毎日祈っていたという。
レバノンにいる姪カリーメがたくさんの手紙を送ってきていた。
カリーメが1947年に送ってきた手紙を持って、グレイスはレバノンへ。
弾丸の跡が残るビル
4本のミナールがある大きなモスク
一つの建物で、ユダヤ、シーア派、キリスト教と、様々な宗派の特徴が見られるもの。
曽祖父の故郷クファルキラは、南レバノンのイスラエルに接した危険地区にあり、入るのに軍の許可がいる。
シドンに許可をもらいにいく。パレスチナ難民も多いところ
北へ。キリスト教徒が隠れた洞窟や、フェニキアの町ビブロスへ。
いよいよ南へ。
ブエノス・アイレスに住むレバノン移民の子孫アントワンがちょうどレバノンに里帰りしていて、案内してくれる。
ヒスボッラーの黄色い旗。
イスラエルの攻撃を受ける危険があるといわれる。
村長の家へ。かつて曽祖父の家だった。曽祖父が98歳で亡くなった家。
村長、「カリーメは1948年、畑仕事をしていたところ、イスラエルに殺された」と話してくれる
曽祖父はレバノンに戻って再婚したが、その彼女との間に子どもはいない
カリーメの息子ハビーブが生きていると判る。その日は畑仕事に出ているので、翌日会いに行くことに。
翌日、ハビーブとその家族が大勢で迎えてくれる。
ハビーブは、物心つく前に母カリーメが亡くなり、母の記憶がない。
グレイスが持っていった手紙は母の唯一の形見。
息子の成長を見ずに亡くなった母。
曽祖父の墓参り。
1980年6月9日没
血を分けた海の向こうの家族たちと過ごした日々・・・
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壮大なファミリーヒストリー。
ハビーブの家族の中には、グレイスに顔立ちの似た女性もいて、まさに血を感じさせてくれます。
手紙を頼りに、ついには曽祖父の故国レバノンで親戚に会い、お墓参りも果たしたことに胸が熱くなりました。
◆上映後トーク《レバノン移民のルーツ探しにみる出会いと別れ》
【ゲスト】 池田昭光さん(文化人類学者/東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・研究機関研究員)
シーア派ムスリムのレバノン移民は、西アフリカに多いイメージが強く、アルゼンチンに行ったシーア派ムスリムがいたことを知り興味深いと池田昭光さん。
1900年頃の渡航はレバノン移民の初期世代。
本作は、監督のレバノン移民としてのルーツ探しであるが、極めて私的で親密な作り。
レバノンや中東の政治・宗教的な問題は触れられているが周辺に留まっている。
レバノン移民についてわからなくても理解できる映画だとして、このトークではレバノン移民についての詳細は説明せず、グレイスの曽祖父を辿る旅を確認する形で進められました。
なお、本作は48分のアル・ジャジーラ放送版(英語字幕付き)をYouTubeで観ることができます。
景山咲子
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