『ナッシングウッドの王子』
英題:The Prince of Nothingwood
フランス、ドイツ、カタール/2017年/85分
監督・脚本:ソニア・クロンルンド
撮影 : アレクサンダー・ナナウ、エリック・ギシャール
録音 : マチュー・ペロ、ハッサン・シャバンカレ
編集 : ソフィー・ブリュネ、ジョルジュ・クラッグ
プロデューサー : ロラン・ラヴォレ
共同プロデューサー : メラニー・アンダーナハ
出演:サリム・シャヒーン、クルバン・アリ、ソニア・クロンルンド
タイトルは彼への賛辞を込め、ハリウッドに対抗し、「ナッシング(無し)ウッド」!
戦火の絶えないアフガニスタンで30年以上に渡り、製作&監督&主演を務めて110本もの映画を撮り続けてきた男、サリム・シャヒーン。
厳しい情勢の中で、国民へ娯楽を提供するために映画に情熱を注ぎ、作品の出演、監督、製作、上映など、全てをほとんど自身でこなす。そんな彼の111本目の撮影にフランス在住のソニア・クロンルンド監督が密着したドキュメンタリー。
戦争が続き、娯楽のない人々にとって、映画はつかの間の娯楽。サリムは映画を持って上映のツアーを続け、その間に作品を撮る。そんなサリムの姿を映画は追う。戦争が続き、近くで爆弾が爆発する時もある。そんな危険を冒しても撮影を続けてきたサリム・シャヒーン監督とスタッフたち。カメラはそんな彼らの撮影風景を追う。
この作品はサリム・シャヒーン監督の旅に密着し、映画を愛し、死を賭してでも映画のために闘う、知られざる驚異のアフガニスタン映画人を紹介するドキュメンタリーである。「アフガニスタンのエド・ウッド」の異名を持ち、家族を始め、身近な人たちを映画に利用し、警官や軍人でさえ、彼の映画であれば喜んで本人役で出演する。一方で監督はアフガン国民の声を代弁し、名もなき人々に存在の証を与え、映画に描く。サリム・シャヒーンは彼らのヒーローなのだ。「ハリウッド」に対抗するタイトルである「ナッシング(無し)ウッド」のタイトルも頼もしい。
9月8日(土)
『マイ・カントリー マイ・ホーム』
英題:My Country My Home
日本、ミャンマー/2018年/130分
監督:チー・ピュー・シン
出演:ウィ・モン・シュエ・イー、アウン・イェ・リン、森崎ウイン
協力:大阪アジアン映画祭
ミャンマー人としてのアイデンティティを考える
約30年前、ミャンマーの民主化運動に参加し、祖国を追われ難民として日本に逃れ、東京でミャンマー料理の店を開いたサイ。娘のナンは日本で生まれ育ち女子高生になった。しかし日本人として生きてきた。しかし無国籍と知り、18歳になった時、国籍を日本かミャンマーか選ばなくてはならなくなった。日本国籍をとるつもりだったが、祖国ミャンマーに行き、親戚に会ったり、祖国の景色を見たり、故郷に生きる人たちや、同じように日本育ちだけどミャンマー国籍を取った人たちを知りどちらの国籍を選ぶべきか迷う。
かつては国を追われ日本にたどりついた親の世代、今はお金を得るために日本に来る若者たち。世代によって考え方が違う。
日本とミャンマー、二つの祖国で揺れる少女のルーツをたどる旅を描いた作品。日本とミャンマーとの合作作品。
ミャンマーやミャンマー人を描いた作品をいくつか見てきたけど、ミャンマーの監督が作った作品は初めてだったかも。日本にるミャンマー人は、かつては民主化運動に参加して故国を追われた人だったけど、今やお金を稼ぐために来日する人もいるということを知った。そして日本育ちのミャンマー人二世世代が育って、今度は祖国との板ばさみになっていることを知った。『僕の帰る場所』藤元明緒監督でも、日本育ちの子供たちが日本語しか知らないままミャンマーに帰ってアイデンティティに戸惑うさまが描かれていたけど、その問題は、海外に住む日系二世、三世にもあるだろうし、きっと日本に定着したベトナム難民の子供たちの間にもこういう問題があるのだろうと思った。日本に生まれ育った日本人としては、そういうことを考えることもなかったけど、これだけ国際化が進めば、そういうことはどこにでもあるということになるのだろうと思った。
参考資料
『マイ・カントリー マイ・ホーム』製作記者会見
スタッフ日記
日本・ミャンマー共同製作映画&ドラマ『My Country My Home』製作発表記者会見 ミャンマーの若き女性監督にお会いする (咲)
http://cinemajournal.seesaa.net/article/453025578.html
『僕の帰る場所』藤元明緒(ふじもとあきお)監督インタビュー記事
http://www.cinemajournal.net/special/2018/boku/index.html
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