2018年9月4日(火) なんなんてこったの1日目
9月5~9日に開催された「あいち国際女性映画祭2018」、今年は4日の記者会見から出ようと4日の朝10時半頃、新幹線「のぞみ」で東京駅を出た。台風上陸が間近に迫っていたので、昼頃に名古屋着ならなんとか間に合うだろうと思って出たんだけど、列車は途中からゆっくりになり11時55分に浜松駅で新幹線は止まってしまった。それから22時頃まで動かず状態。幸い駅に停車していたのだけど、臨時停車でホームには接していなくて、隣に止まっている「ひかり」と「のぞみ」の間に梯子を渡し、「ひかり」を経由してホームに出ることができた。長時間車両の椅子に座っていたけど、少しは外に出ることができたのが不幸中の幸いだった。でも、台風が日本海側に出て通過したら動くのかと思ったら、架線が切れたとのことで、結局10時間近く浜松駅に留まることになった。やっと22時頃動いたけど、止まり止りで、結局名古屋には夜中0時頃着。すでにその時間では、泊まる予定のウイルあいちの宿泊所には入れず、新幹線ホテルに泊まることになった。こんな状態で少し疲れたけどそれでもなんとか名古屋にたどり着くことができた。朝、始発前の5時頃には起こされて、あとは名古屋駅の新幹線待合室で7時頃まで寝て、朝食を食べてからウイルあいちに向かったけど、なんとも大変な幕開けでした。
9月5日(水)
名古屋駅構内で、名古屋名物の小倉アンのモーニングセットで朝食。そして映画祭会場のウイルあいちへ。午後3時からでないと宿泊受付はできないというので、傘や大荷物を持ったまま映画祭会場へ。今回、3日間ウイルあいちに泊まれることになったのはいいのだけど、毎日違う部屋になってしまった。当初、和室しか取れずそこで3連泊の予定だったけど、間際になって洋室の空きが出て、洋室にを変更してもらったら毎日部屋が変わるはめになってしまったというわけ。それでも会場のそばに泊まることができるというのは大変ありがたい。10時からウイルホールで上映される『リメンバー・ミー』へ。
『リメンバー・ミー』
中国/2017年
監督:彭小蓮(ポン・シャオレン)
出演
黄宗英(ファン・ゾンイン)本人
阿偉:賈一平(ジャ・イーピン)
彩雲:馮文娟(フォン・ウェンジュン)
上海と映画への想いに溢れた作品だった
伝統的な中国オペラで活躍している女優彩雲は、映画スターになることを夢見て、田舎の村から上海にやってきて、幼馴染の阿偉(アーウエイ)が暮らしている古い家に転がりこんだ。阿偉は撮影監督になることを夢見て、ドキュメンタリー作品を撮っている女性監督の元でカメラマンの仕事をしている。その作品は1930年代に中国で活躍していた趙丹(チャオ・タン)と妻で女優でもある黄宗英(ファン・ゾンイン)のことを扱っているのか、現在も存命の黄宗英に取材するシーンが出てくる。そして趙丹出演作の『カラスと雀』『街角の天使』のシーンも流れる。
阿偉が住んでいるのは上海の古い街、石庫門の今にも取り壊わされそうな古い家。阿偉の家に趙丹が出演する昔の映画フィルムがたくさんあるので、住んでいるところは、昔映画館だったところなのかもしれないと思ったけど、後で監督に確認したらそうではないと答えていた。
そのフィルムを見て映画に想いを馳せる阿偉と、そのフィルムを見てその作品のシーンを演じることを思いつく彩雲。彩雲が映画のいくつかのシーンを同じように演じ、阿偉が撮影。それをネットにアップ。それを見て彩雲に映画出演の声がかかった。
古い映画人へのオマージュと近代的なネットによる映像アップという状況。商業映画とインディペンデント映画。現在の、北京と上海の映画事情と香港との関わり。古い上海と現代の上海。壊されていく古い街の向こうには近代的な高層ビルが見える。そんな対比が描かれる。
彩雲は北京での撮影に向かうが、阿偉は上海に残って仕事をする道を選ぶ。映画への夢を追いかける二人だけど、何を見つけることができるのだろう。
彭小蓮監督の故郷上海への愛と、壊されてゆく古い古民家への思い入れ、忘れられている趙丹や黄宗英など古き良き中国映画を若い人にぜひ知ってもらいたいという思い、若い映画人を目指す二人へのエールに満ちた作品だった。
中国で作った字幕がひどかったけど、せめて上映前に観客に字幕の件を断ったほうがよかったのではと思った。以前、東京でも中国映画週間でそういうことがあり、観客が離れていったことがあったのでちょっと心配。こちらは日本人ボランティアが参加し、今はちゃんとした字幕での上映が続いている。
『梅の木の俳句』
イタリア・日本/2016年
監督:ムージャ・マライーニ・メレヒ
撮影監督:マウラ・モラレス・バーグマン
編集:レティツィア・カウドゥッロ
音楽:坂本龍一
同盟国イタリア人が日本で強制収容されていたことに驚き
イタリアの著名な文化人類学者&東洋学者であり、写真家、登山家でもあったフォスコ・マライーニ(1912-2004)は、1938年研究のため家族とともに来日。しかし、第二次世界大戦下の1943年、イタリア休戦協定後、ファシズム政権への宣誓を拒否したため、イタリア人とはいえ敵性外国人として家族(妻トパツィア・アッリアータと三人の幼い娘ダーチャ、ユキ、トニ)とともに名古屋の施設に強制収容され、1945年8月15日まで過酷な経験を強いられた。
70年の時を経て、フォスコの孫であるムージャ・マライーニ・メレヒ(トニの娘)監督は、祖父母一家の足跡と家族の記憶を辿り、東京、名古屋、フィレンツェなどの地を訪れ、自分の家族の過去の記録を作品にした。
名古屋での天白寮という収容所での生活は、監視の警察官たちによるいじめや搾取を受けたという。規律に定められた食料配給も奪われ、ゴミ溜めを掘り起こして食料を探したほどだった。飢餓状態になり、父親は決死の抗議をしたり、日本人にとっては耳の痛い話が続く。名古屋空襲で天白の収容所が消失し、その後は石野村(現 豊田市東広瀬町)にある広済寺に移り、終戦まで暮らした。
祖母と母が語ってこなかった家族の歴史に向き合い、祖母や母親、伯母で作家のダーチャ・マライーニへのインタビューを実現させ、当時の写真や映像も取り入れた。
第2次世界大戦の時、日本の同盟国であるイタリア人なのに敵性外国人として日本の収容所に強制収容された人がいたとは驚きだった。
そして、こんな過酷な日本での生活をしたにもかかわらずフォスコ・マライーニは、戦後、世界中に日本文化を伝え、ヨーロッパの日本文化研究の礎を築いたという。アイヌ研究や舳倉島の海女に関する本も出している。1953年に再来日し、日本各地を巡って記録映画を撮影。1970年の大阪万博ではイタリア館広報部ディレクター、イタリアでの日本研究学会の会長職を勤め、日本、イタリア間の文化・学術交流に貢献した人ということを知った。 2013年には「フォスコ・マライーニ賞」というのが創設され、日本語によるイタリアに関する優れた著作の中から選ばれるという。日本でのイタリア文化への理解と関心を促進することを目的として創設された賞らしい。
長女のダーチャ・マライーニは小説家・劇作家・詩人で、主にフェミニズムや反ファシズムをテーマにした作品で知られ、ノーベル賞候補に何度もなっているそう。ムージャ・マライーニ・メレヒ監督の母トニも詩人・作家とのことで、文化人一家に育った監督だからこその作品かも。
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