イスラーム映画祭3 『熱風』  印パ分離独立に翻弄されたムスリム一家を描いた名作 

3月22日(木)13時30分~ 東京・ユーロスペース(渋谷)での『熱風』上映と麻田豊氏のトークの模様をお届けします。 
景山のつたないメモに、麻田豊氏ご本人が丁寧に加筆してくださいました。

2018年8月11日から公開される『英国総督 最後の家』は、印パ分離独立前夜を舞台にした人間ドラマ。このトークがきっと参考になることと思います。
『英国総督 最後の家』http://eikokusotoku.jp/


『熱風』原題:Garm Hava
インド、1973年 138分
neppu.jpg
※東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵作品
監督:M.S.サティユー
主演:バルラージ・サーヘニー、ショーカット・カイフィー、ファールーク・シェーフ、ディーナーナート・ズッチ、ギーター・スィッダールトほか

*物語*
1947年、イギリスの植民地支配から分離独立したインドとパキスタン。
パキスタンは、ムスリムのために作られた国。インドに住むムスリムの多くはパキスタンへ。パキスタンとなった地に住むヒンドゥーはインドへと移住。
本作は、インドの古都アーグラに留まることを選択したムスリム一家の物語。
靴の製造業を営むサリーム・ミルザー。同じ屋敷で暮らしていた政治家の義兄ハリーム一家は、早々にパキスタンへの移住を決める。カラチに落ち着いた姉からは、ハリームが政治家を辞めて粉引き屋になったと手紙が来る。サリームは、銀行の融資が途絶え、屋敷を売って家を借りようとするが、ムスリムへの風当たりは強く難航する。
サリームの娘アーミナと恋仲だったハリームの息子カーズィムが、カナダに留学すると別れを告げにカラチからアーグラに舞い戻ってくる。実はカースィムに縁談が持ち込まれ、逃げてきたのだ。嬉しい再会だったが、カーズィムは密入国の罪で捕まってしまう。アーミナにも別の縁談があって、一緒になれないことを悲観し、アーミナは婚礼のベールを被って自害してしまう。
サリームは、いよいよ町を去る決意をし、わずかな家財道具を車に積み、家を後にする・・・

◆3月22日(木)13時30分からの上映後トーク 

《ギーターにもコーランにも誰も耳を貸さなかった、印パの分離独立》
ゲスト::麻田豊さん(ウルドゥー語学文学、インド・イスラーム文化研究者)

麻田:この映画は30年前の大インド映画祭1988で上映された作品で、幸運にも東京国立近代美術館フィルムセンター(現在の国立映画アーカイブ)に35mmフィルムで所蔵されています。この大インド映画祭で僕は2本の字幕を担当しました。もう1本は『踊り子Umrao Jaan』(1981年)です。僕が初めて字幕を担当した2本でもあります。画質が心配でしたが、かなりよかったですね。

藤本:保存状態がいいですね。

麻田:この時の大インド映画祭ではインド・アーリヤ諸語ではヒンディー語のほかウルドゥー語、ベンガル語、マラーティー語、ドラヴィダ諸語ではマラヤーラム語、タミル語、カンナダ語の計25本の劇映画が上映されたのですが、日印両政府による一大文化事業であったため、いずれも歴史に残る名画が選定されました。これほどの大規模なインド映画祭は後にも先にもありません。しかし、日本で字幕を入れると高くつくので、日本側で翻訳した字幕原稿をボンベイ(現ムンバイ)で入れたため、見苦しい点が散見されます。こうした意味でも、ほんとうに懐かしい作品です。
冒頭の複数の白黒写真ではインド独立運動に係わった人たちやパキスタン建国の父ジンナー、最後のインド総督マウントバッテン、インド初代首相ネルーなどの姿に続いて、列車の屋根にまで乗った避難民の姿が映し出されていましたね。印パ分離独立で1400万人の人口移動が起こり、100万人が犠牲になったと言われています。でも、この映画は避難の最中に遭遇した暴力や殺戮は描いていないんです。
1947年8月15日にインドは独立しましたが、その5か月後の1948年1月30日午後5時12分に国父マハートマー・ガーンディーが暗殺されます。本編に入る直前の3発の銃声はガーンディーの死を示しています。
国境をはさんで起こった大混乱・大騒動を背景に、家族関係が徐々に崩壊していく様子を淡々と描いていきます。ムスリムはパキスタンへの移住を余儀なくされているという暗黙の了解がありました。
映画は1973年の製作で、音声をアフレコで入れ終わった直後に主人公役の名優バルラージ・サーヘニーが亡くなりました。享年59歳。冒頭に「バルラージさんに捧ぐ」と出ます。国家映画賞では「国民統合に関する最優秀映画賞」を獲得、またフィルムフェア賞では作品賞と台詞賞を受賞しています。
今回、サティユー監督に上映許可を取るために、女優のシャバーナ・アーズミーに連絡先をうかがいました。彼女は脚本担当のカイフィー・アーズミーと母親役のショーカット・カイフィーの娘でもあります。

藤本:監督にメールを送ったら、やや日時をおいて返事が来ましたが、その後ファックスで送った書類にサインをしてもらい、フィルムセンターから無事借りることが出来ました。

麻田:監督は現在89歳ですが、インド共産党の文化部門であるIPTA(Indian People’s Theatre Associationインド人民演劇協会)での舞台劇の照明やセットデザイン、演出をされてきた方です。そういうわけで、本作のキャスティングもデリー、アーグラ、ムンバイのIPTA所属の俳優を中心に行われました。バルラージ・サーヘニー自身、映画はもとより舞台で活躍していた俳優です。彼もまたインド共産党になんらかの影響を受けた演劇人の一人です。
長男スィカンダル(アレキサンダー大王の意)ですが、彼もIPTAの舞台劇出身。劇中では大学を卒業したけど職がない。社会変革を求めるデモに参加します。スィカンダル役のファールーク・シェーフはこの作品で映画デビューしました。『踊り子』にも出ています。2013年12月28日にドバイで心臓発作のため亡くなりました。66歳。僕と同い年です。
祖母役がなかなか見つからなかったそうですが、映画の撮影に使ったお屋敷の所有者が探してきました。アーグラの女郎屋の女将で、名前はバダル・ベーガム。16歳の時に映画に出たくてボンベイに出てきたものの、夢はかなわず娼婦になったとか。死ぬ前に映画に出演できるとは、と感激していたそうです。声は別の女優がアフレコしています。

藤本:「ギーターにもコーランにも誰も耳を貸さなかった」というのは?

麻田:「ギーター」は、バガヴァッド・ギーターの略。尊き神の歌を意味しています。インド古代の叙事詩マハーバーラタの一部を成しています。脚本を書いた一人カイフィー・アーズミーの詩が、最初と最後に出てきます(注:脚本はもう一人、監督の妻シャマー・ザイディーも担当)。
新たな訳で朗読させてください。

(映画の始まりで)
国が分割された時 心は粉々に砕けた
一人ひとりの胸の中に嵐が渦巻いた あちらでもこちらでも
家々では火葬の薪から炎が燃え盛っていた
どの町も火葬場と化していた あちらでもこちらでも
ギーターに耳を貸す者もなく コーランに耳を貸す者もなく
信仰はうらたえるばかりだった あちらでもこちらでも
(映画の終わりで)
遠方から嵐を眺めれば 嵐が起きている様が見てとれる あちらでもこちらでも
豪雨の流れに合流して その流れの一部になれ
今や時の知らせが告げられる あちらでもこちらでも

この詩には国境の「あちらでもこちらでも」が反復されている。あちらはパキスタンで、こちらがインド。住み慣れたこちら側の住居、国からあちら側へ追い立てられるが、最終的にはこちら側に残る。でもその代償は大きかった。土地、生命、生活、財産、名誉、人間性、恥、価値観等々を喪失せざるをえなくなる。自分の居場所に固執する父、祖母、長男スィカンダル。母は現実的だが娘のアーミナは婚約者に2度も振り回された結果、国の分割に対して命を投げ出すことになる。
2014年11月にデジタル修復版が完成し、限られた町で短期間再上映されたが、分離独立から70年経た今日でもムスリムとヒンドゥーのコミュナルな対立は続いていることもあり、観客からの反応・反響は大きかった

藤本:印パ分離独立後のことを、少し説明願います。

麻田:(分離独立時の地図が投影される) 当時のインドの人口は3億2800万で、うちムスリムは3300万。パキスタンの人口は8200万だが、東パキスタンが5200万で西パキスタンが3000万。面積は旧インド帝国の78%がインド、22%がパキスタンでした。東パキスタンは1971年にバングラデシュとして分離独立しましたよね。(ちなみに2016年現在の人口はインド13憶2400万、パキスタン1億9320万、バングラデシュ1億6300万)
最初にも少し触れたように、約1400万人が移動し、その過程で100万人が亡くなった。凄惨な殺りくなどは動乱文学で括られる文学作品で描写されています。もちろん強姦や誘拐も数多くありました。避難民たちを満載した列車がこちら側のデリーを出発したが、あちら側のラホールに到着した時には客車は死体の山で埋まっていたというようなこともありました。「ライフ」誌の女性カメラマン、 マーガレット・バーク=ホワイト(Margaret Burke=White 1904-1971)が独占的に当時の記録写真を撮っています。(写真10数枚が投影される。)
https://www.facebook.com/pg/Rare-Book-Society-of-India-196174216674/photos/?tab=album&album_id=438133571674

次に、印パ分離独立についての参考文献として、次のノンフィクション本を紹介しておきます。単行本、文庫本ともにすでに絶版ですが、古書で入手するなり公立図書館で借りてぜひお読みください。
『今夜、自由を―インド・パキスタンの独立〈上・下〉』 (1977年、早川書房)
著者:ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ 翻訳:杉辺利英
『パリは燃えているか?』の著者二人がガーンディーの行動を中心に、分離独立前夜を多数の有名無名を問わず多数の生存者に取材してまとめた傑作ドキュメントとなっています。(同書から4か所の引用文が朗読される。)

*******

最後に、Google Searchの3分半の広告動画「Reunion(再会)」が流されました。2013年11月にYouTubeとテレビで流された動画です。印パ分離独立で、インドとパキスタンに離れ離れになってしまった幼馴染。こちら側のヒンドゥーのおじいさんの孫娘がグーグルで検索してあちら側のムスリムのおじいさんの居場所を突き止め、このおじいさん二人が再会するという短い感動ドラマになっています。
https://www.youtube.com/watch?v=bVMrCtCq9gs

映像が終わって、藤本さんから一言。「パキスタンからやってきたユースフ役は『熱風』のサティユー監督が演じていました」。皆が、え~?! と驚く。 「想定内の反応ですね! 実はパキスタンでインドのビザは簡単には取れないのですが、理想的フィクションということで」。

この動画は映画『LION/ライオン~25年目のただいま~』を彷彿させられました。
映画のごとく、熱く盛り上がったトークでした。

追記:麻田さんのfacebook投稿記事より
『熱風』のトークセッションで言い忘れたことがある。
ひとつは脚本・台詞・歌詞を担当し、冒頭と最後に自作の「あちらでもこちらでも」の詩を朗読しているウルドゥー進歩主義詩人でありインド共産党員だったカイフィー・アーズミー(1919-2002)は生前こう述べていた。「私は隷属状態のインドで生まれ、独立した世俗国家のインドで生き、そして神が望めば、社会主義のインドで死を迎える」。
もうひとつは、サティユー監督の奥様であるシャマー・ザイディーが脚本・衣装に加わっていること(ムザッファル・アリー監督の『踊り子Umrao Jaan』では台詞と衣装を担当)。そもそも、インドに残るムスリムという主題の発案者は彼女だったらしい。さらに重要なことは監督はヒンドゥーで奥様はムスリムであること。演劇に対する情熱が二人を結びつけたのである。



この記事へのコメント