第37回東京国際映画祭 ウィメンズ・エンパワーメント部門シンポジウム 『映画をつくる女性たち』の上映とシンポジウム「女性監督は歩き続ける」
今年、第37回東京国際映画祭(2024)に「ウィメンズ・エンパワーメント」部門が新設され、女性監督の作品、あるいは女性の活躍をテーマとする作品に焦点をあてた部門として、東京都と連携し開催されました。この部門のシニア・プログラマーに、初代駐日マケドニア大使で自身も映画監督としての顔を持つアンドリヤナ・ツヴェトコビッチ氏が就任。海外と日本の新作8本が上映され(ゲストトーク付き上映も)、『映画をつくる女性たち』(熊谷博子監督)の上映とシンポジウム「女性監督は歩き続ける」が開催された。
この部門での女性監督の作品は7作品だが、映画祭全体では、男女共同監督を含めた女性監督作品は43本(女性のみ37本、男女共同6本)で全体の中での比率は21.9%(昨年は22.4%、同じ監督による作品は作品数に関わらず1人としてカウント)だそう。
日本の女性監督第1号といわれる坂根田鶴子さんが1936年に監督デビューしてから約90年。女性監督や女性映画人は増え、男性と互して活躍している女性も出てきたが、日本の映画界では依然としてジェンダー格差は大きい。この90年、どんな変化があり、変わっていないことは何なのか、未来に向かってどういうことが必要なのか。このシンポジウム「女性監督は歩き続ける」に、ベテランから若手まで、幅広い世代の女性監督が登場し、男性中心の映画界での女性たちの苦戦苦闘、奮闘を振り返り、格差をなくし、労働環境を改善するために何ができるか語りあった。この日のイベントは無料で申し込み制だったが、200人余りの席はすぐに満席になった。そして参加してみると、知った顔がたくさん。「お久しぶり、元気だった」と、まるで同窓会のようだった。1978年の女たちの映画祭で『女ならやってみな』(デンマーク/1975年)上映などの活動をしていた人もいた。
*シネマジャーナル関連記事
・第37回東京国際映画祭 「ウィメンズ・エンパワーメント」部門新設!
・新設「ウィメンズ・エンパワーメント部門」 シニア・プログラマー アンドリヤナ・ツヴェトコビッチさんに聞く
★37回東京国際映画祭 ウィメンズ・エンパワーメント部門シンポジウム
『映画をつくる女性たち』の上映とシンポジウム「女性監督は歩き続ける 」
11月4日(月・祝 )10:00-17:00
10時から オープニングトーク【東京国際女性映画祭の思い出】
挨 拶: 安藤裕康(第37回東京国際映画祭)
ゲスト:クリスティン・ハキム(インドネシア 俳優・プロデューサー)
聞き手:近藤香南子
『映画をつくる女性たち』監督:熊谷博子 (2004,103min)の上映
13時からシンポジウム「女性監督は歩き続ける」
女性監督クロストーク(4部構成)
[第1部] 道を拓いた監督たち
登壇者:熊谷博子、浜野佐知、松井久子、山﨑博子
聞き手:森宗厚子(フィルム・アーキビスト、広島市映像文化ライブラリー)
[第2部] 道を歩む監督たち
登壇者:佐藤嗣麻子、西川美和、岨手由貴子、ふくだももこ、金子由里奈
聞き手:近藤香南子
[第3部] ウィメンズ・エンパワメント上映作品の監督たち
登壇者:ジェイラン・オズギュン・オズチェリキ(トルコ)、オリヴァー・チャン(香港)、甲斐さやか
聞き手:アンドリヤナ・ツヴェトコビッチ(当部門シニア・プログラマー)
[第4部] 女性映画監督の未来+Q&A
登壇者 : 1、2 、3 部の監督たち
聞き手 :児玉美月氏(映画文筆家)
会場:東京ミッドタウン日比谷 BASE Q
入場無 料(事前申込制)※場内お子様連れ可、託児・見守りサービス・キッズスペースあり
スタッフ
シンポジウム企画・プロデュース:近藤香南子
公式ブックレット編集:月永理絵
公式ブックレットデザイン:中野香
制作協力:田澤真理子
当日制作協力:坂野かおり、角田沙也香、中根若恵
当日託児:in-Cty 合同会社
当日記録:木下雄介、木下笑子、矢川健吾
●今回の第37回東京国際映画祭「ウィメンズ・エンパワーメント部門」での上映作品
1、『徒花-ADABANA-』(日本/フランス、甲斐さやか監督)
2、『10セカンズ』(トルコ、ジェイラン・オズギュン・オズチェリキ監督)
3、『イヴォ』(ドイツ、エヴァ・トロビッシュ監督)
4、『マイデゴル』(イラン/ドイツ/フランス、サルヴェナズ・アラムベイギ監督)
5、『灼熱の体の記憶』(コスタリカ/スペイン、アントネラ・スダサッシ・フルニス監督)
6、『母性のモンタージュ』(香港、オリヴァー・チャン監督)
7、『私の好きなケーキ』(イラン/フランス/スウェーデン/ドイツ、マリヤム・モガッダム&ベタシュ・サナイハ監督)
8、『劇場版ドクターX』(日本/田村直己監督)
●オープニングトーク【東京国際女性映画祭の思い出】
最初に、企画者の近藤香南子さんが、このシンポジウムをやろうと思ったきっかけや、どういう流れでこのイベントを作ってきたかを語った。国立映画アーカイブで企画された「日本の女性映画人」の中で、『映画をつくる女性たち』を観て、この中で羽田澄子監督の「感じた人は行動する責任がある」の言葉に触発され、本シンポジウムを企画したという。また、かつて開催されていた東京国際女性映画祭を設立した故・高野悦子さんへの賛辞や、これまで先輩監督たちとの交流がなかったことが語られ、こういう企画を立ち上げた経緯が語られた。会場には女性が参加しやすいように託児スペースも設けられた。また、来場者に配られたブックレットの制作にもふれた。日本の女性監督の作品一覧をまとめ、アーカイブ資料やインタビューも掲載された充実した内容に仕上がっている。
安藤裕康チェアマンが登場し、東京国際女性映画祭が始まったいきさつと高野悦子さんとの思い出などが語られた。1985年の第1回東京国際映画祭から、岩波ホール総支配人だった高野悦子さん、大竹洋子さん(岩波ホール)、小藤田千栄子さん(映画評論家)などが中心になり、女性監督作品を上映する東京国際女性映画祭(当初は隔年でカネボウ女性映画週間と言っていた)が併設されていました。2012年まで25回にわたって開催。その頃と比べれば映画界での女性の数は増えてはいるが、男性と対等とは言いがたい状況は変わらずということで、女性監督を応援していこうと、今回、ウイメンズエンパワメントを新設したことも語った。
高野悦子さんは、1985年頃は岩波ホールの総支配人として、その頃、あちこちに出現してきたミニシアターの牽引者的存在でした。でも本当は映画監督になりたいと、勤めていた映画会社を辞め、フランスに渡り、高等映画学院(IDHEC)の監督科で学び、日本に戻って監督の道をと思ったのですが、その道は叶わず、40歳を前に岩波ホールの支配人になり、それ以降はたくさんの国内外の監督作品を紹介していました。そんな中で始まった東京国際女性映画祭ですが、「世界の女性監督の紹介」と「日本の女性監督の輩出」を目標に続けていました。
シネマジャーナルでは、第2回(1987)の東京国際映画祭から取材し、「女性映画週間」も取材してきましたが、主に本誌で紹介してきました。一番最初の紹介はシネマジャーナル2号で紹介しています。2012年の第25回東京国際女性映画祭最終回では、シネマジャーナル事務局の泉悦子監督の作品『心理学者 原口鶴子の青春 100年前のコロンビア大留学生が伝えたかったこと』(ドキュメンタリー91分)も上映されました。
*シネマジャーナル関連記事(ネット記事のみ)
・『心理学者 原口鶴子の青春 100年前のコロンビア大留学生が伝えたかったこと』HP
・2009 第22回東京国際女性映画祭 映像が女性で輝くとき
・追悼 高野悦子さん 2013年
・『ベアテの贈りもの』2004年東京国際女性映画祭で上映
1. ベアテ・シロタ・ゴードンさんインタビュー
2. 藤原智子監督インタビュー
3. 憲法24条の解説
そして、東京国際女性映画祭にゲストとして何回もいらしていたインドネシアの国民的大スターであり、プロデューサーなども勤め、『枕の上の葉』『チュッ・ニャ・ディン』『囁く砂』などの作品が日本でも公開されているクリスティン・ハキムさん(1956年生まれ)が登場し、高野悦子さんとの長い交流の話をしました。高野さんを「お母さん」と慕い、女優だけでなく映画製作の道へも導いてくれたと語っていた。高野さんは、日本やヨーロッパの映画人だけでなく、アジアの女性映画人も支え続けた。あまりにも高野さんとの思い出が多く、かなり時間が超過し30分くらい話していたと思うけど、この会場に来ていたこれまで東京国際女性映画祭に参加してなかった人には貴重な話だったと思います。
●『映画をつくる女性たち』監督:熊谷博子(2004,103min)上映
2004年となっていますが、「東京国際女性映画祭」が15回目を迎えるに当たり、記念作品として製作されたドキュメンタリー映画で2002年に上映されています。私はこの時に観て、シネマジャーナル57号(2002年12月発行)で紹介していますので、こちらは完成版ということなのでしょう。
登場するのは羽田澄子、渋谷昶子、宮城まり子、栗崎碧、関口典子、山崎博子、槙坪夛鶴子、村上康子、藤原智子、栗原奈名子、奈良橋陽子、高山由紀子、松浦雅子、松井久子、浜野左知、田中千世子、高野悦子、岡本みね子、飯野久など、この女性映画祭に参加した監督やプロデューサーの方々。そして坂根田鶴子、田中絹代ら日本の女性映画監督の草分けとも言える人たちも登場。彼女たちがどのような道を歩んできたのか、男性社会である映画界で女性が映画を撮るということにどんな意味があるのか、映画を撮り続けることの難しさや意義についてなどを語っていて、今や日本の女性映画監督黎明期を記録したものとして、貴重な記録となっている。
このイベントの企画者は近藤香南子さん。子育て中の元助監督で、今は映像系のクリエイターマネジメントをしているそうです。今年(2024)2月20日、国立映画アーカイブで『映画をつくる女性たち』を観て、スクリーンで語る女性映画人に「かっけ〜!」と思ったけど、今まで私はどうしてここで話している女性たちに出会っていなかったのだろうと思ったのがきっかけのようです。
詳細はこちら シンポジウム「女性監督は歩き続ける」をしますよ。
近藤さんはこのように言っていますが、逆に私は、この映画に出てきた人たちの作品を観てきて、取材した方もいるのに、シンポジウムに出てきた若い世代の監督は名前を知らない方もいました。この映画を22年ぶりに観て、改めて映画に取り組んだ女性たちの心意気や状況と、その後の変化について考えました。確かに当時と比べれば女性監督や映画の仕事に関わる女性も増えたと思うし、あの頃あった「女性が映画監督として指示を出しても無視されたり、仕事を進められなかった」という状況から比べれば、確かに進歩はあったと思うけど、商業的な映画作品には、まだまだ女性監督は多くない。もっとも商業的な映画をあまり観ない私としては、その分野に女性が増えればいいというものではないとは思っている。女性が映画界の中で働きやすく、また、活躍できる場が増えていければと思ってきた。
撮影現場で女性監督が「スタート」と声をかけると、「女の監督の言うことなんか聞けるか」と、照明を消されてしまったと語っていたシーンはよく覚えていたけど、これを語っていたのは渋谷昶子(あきこ)監督だったんだと思い出しました。渋谷監督には、映画に関わってきた自分史を書いてもらおうと、最晩年、入院している病院に何度も通い、やっと1話目を書いてもらったのですが、突然亡くなってしまい4話でまとめる予定が、1回目で終わってしまいました。とても残念でした。そんなことを思い出しながら観ました。
シネマジャーナル96号(2016年)
渋谷昶子監督 自身を語る 第1回「大連は私の原点」
●シンポジウム「女性監督は歩き続ける」
女性監督クロストーク(4部構成)
☆[第1部] 道を拓いた監督たち
『映画をつくる女性たち』を作った熊谷博子さん、この映画に出演した監督の中から、浜野佐知さん、松井久子さん、山﨑博子さんが登壇。聞き手は森宗厚子さん。ここに参加された監督たちは、シネマジャーナルではお馴染みの監督さん。また、森宗厚子さんも配給会社にいた時からの知り合いです。森宗厚子さんは「フィルム・アーキビスト」と紹介されていて、それはどういう意味?と思って調べてみました。森宗厚子さんは国立映画アーカイブ特定研究員で、国立映画アーカイブで2023年2月7日(火)-3月26日(日)に上映された「日本の女性映画人(1)――無声映画期から1960年代まで」や、2024年2月6日(火)-3月24日(日)に上映された「日本の女性映画人(2)1970-1980年代」の企画者です。森宗さん自らXで「フィルムアーキビストとは、文化資源の観点から映画等フィルム及び関連資料の収集・保存・上映・公開や研究等に携わる専門家を指す」と語っています。この上映会をするために収集した資料は相当な量だったでしょう。
この『映画をつくる女性たち』を作った熊谷博子監督は、『よみがえれ カレーズ』(1989)、『三池 終わらない炭鉱(やま)の物語』(2005)、『作兵衛さんと日本を掘る』(2018)、最新公開作は『かづゑ的』(2023年)など、ドキュメンタリー映画を撮り続けてきました。「右手にカメラ、左手に子供」というキャッチフレーズが印象に残っています。
この映画が20年たって上映されるとは思っていなかったので、バトンがリレーされ受け継がれ上映されたことが嬉しいと語り、東京国際女性映画祭の場に羽田澄子監督や渋谷昶子監督などの先輩がいて、それぞれの方の姿に元気づけられたこと、髙野さんの「低きに流れてはいけない」という言葉を紹介してくれました。そして女性映画祭は、「女性監督の居場所作り、繋がりをつくる場でもある。女性監督には率直に話せる場が必要」。そういう役割も担っていると語った。
『作兵衛さんと日本を掘る』 熊谷博子監督インタビュー
浜野監督は、女性が監督になる道がなかったから、ピンク映画に飛び込んだと回想。「女の性を女の手に取り戻す」をテーマに撮り続けている。当時200本あまりのピンク映画を作っていたけど、女性監督の最多監督作は田中絹代の6本だといわれて、ピンク映画は数に入らないのかと奮起し、非ピンクの長編映画制作に乗り出した。高野さんたち女性映画祭関係者にピンク映画を観せたエピソードを語り、男の監督が作るのとは違い「女性の視点がある」と評価してくれて、資金を集めるなど応援してくれたという。そして、『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』(1998)ができ、その後『百合祭』(2001)、『百合子、ダスヴィダーニヤ』(2011)、『雪子さんの足音』(2019)など6本の一般映画を製作。最新作は、大正時代に大逆罪で死刑判決を受けた無政府主義者金子文子の最後の闘いを映画化した『金子文子ー何が私をこうさせたか』。アジアやヨーロッパの女性映画祭で認められ、自信や力になったという。浜野監督といえば、サングラスがトレードマーク。「サングラスが戦闘服のつもり」と男社会での戦いを振り返った。
松井久子監督は、テレビドラマのプロデューサーを経て、50歳を過ぎてから映画監督になった。長編デビュー作『ユキエ』は、プロデューサーとして監督を探していたら、新藤兼人監督から自分で監督すれば監督になったという。アメリカで撮影したこの映画、監督とスタッフ
は同等な仲間だったけど、その後、日本で撮るようになったら、監督は1段上の扱いで居心地が悪かったという。『折り梅』(2001) 、『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』(2014)など5本の映画を製作。男性の描く女性像と女性の描く女性像には明確に違いがあり、観客が女性監督の作品を観たいと支えてくれるようになるといいと語った。
日米で映画製作をしてきた松井監督。お金を集めるところから、製作、公開と一人で奮闘してきたが、女性映画祭の場で女性監督たちと顔を合わせるのは貴重な場だったと語った。
『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』松井久子監督インタビュー
山崎監督は、東京国際女性映画祭には、高野氏から声をかけられて参加することになったという。角川春樹監督『天と地と』、蔵原惟繕監督『ストロベリーロード』の北米ロケのスタッフとして働き、91年、日本に帰国後、角川映画『ぼくらの七日間戦争2』で長編映画監督デビュー。その後、ドキュメンタリー映画『タラウマラの村々にて』、『女性監督にカンパイ!』(2007)などを撮る。
アメリカで映画を学んだが、日本のシステムの中では助監督になれず、通訳をなどをする中で大型商業作品に携わったが、日本独自の映画システムに苦労した。商業作品を手掛けたことを非難され、落ち込んでいた時に女性映画祭から声がかかり、毎年の参加がとても嬉しかったという。日本はジェンダーギャップ指数が後ろから数えたほうが早い。そういう国に暮らしていることを認識してやっていくしかない
という。
皆さん、年に一度の東京国際女性映画祭で海外の女性監督はじめさまざまな映画人と出会い、それぞれの苦労や喜びを語り会え、分かち合えたことがとてもよい経験になったと語っていました。「道を拓いた監督たち」というタイトルになっていますが、その前の世代の、ほんとうの意味での「道を拓いた監督たち」は、すでにほとんどの方が亡くなり、今では羽田澄子監督ぐらいしか残っていないのかもしれません。
☆[第2部] 道を歩む監督たち
登壇者:佐藤嗣麻(しま)子、西川美和、岨手(そで)由貴子、ふくだももこ、金子由里奈
聞き手:近藤香南子
写真
佐藤嗣麻子、西川美和、岨手由貴子、ふくだももこ、金子由里奈
第1部の監督たちより若い世代の監督たちが登場。1部のトークを受けて、『映画をつくる女性たち』を観ての感想から、これまでの現場での経験、子育て世代の方たちの事情、映画業界の問題解決方法への意見など、若い世代ならではの話で盛り上がりました。