山形国際ドキュメンタリー映画祭 『リトル・パレスティナ』 (咲)

アジア千波万波
小川紳介賞


★受賞作オンライン上映 10月14日(木)19:30〜

リトル・パレスティナ
Little Palestine, Diary of a Siege

little palestina.jpg

レバノン、フランス、カタール/2021/89分
監督:アブダッラー・アル=ハティーブ Abdallah Al-Khatib

シリア、ダマスカスにあるヤルムーク・パレスティナ難民キャンプ。
アブダッラー・アル=ハティーブ監督自身の出身地である、この難民キャンプが、アサド大統領により道路が封鎖され、インフラは止まり、食料にも事欠くようになった。
本作は、監督がそれまで縁のなかったカメラを廻し、封鎖下の難民キャンプの日常生活を2013年から2015年にわたって記録したもの。

難民キャンプといっても、大通りの両脇に数階建ての建物が並ぶ立派な町。
パレスティナ方言を意識して守っている老女は、1948年、15歳の時にパレスティナを去った時のことをはっきり覚えていて、当時シリアで尊厳も守られて受け入れて貰ったと語ります。長年、ここで暮らすうちにシリア方言になってしまうのも仕方ないと嘆きます。
7か月にわたる砲撃の間に多くの人が逃げ、難民キャンプに残っていた者は、突然の封鎖で閉じ込められて刑務所の中にいるのも同然の状態になってしまいました。封鎖された時に、たまたまキャンプの外にいて締め出され、家族が離れ離れになったケースもあります。
食料が届かなくなり、食べられるものを探して彷徨う日々。雑草も食べつくして、サボテンを食べるしかないと調理方法を工夫します。「この状態が続いたら、犬を食ってやる」とやけくその者も。
いつか神様が埋め合わせをしてくれるとつぶやく少女。その願いが叶うことを祈るばかりです。


◆アブダッラー・アル=ハティーブ監督Q&Aより

― 爆撃と都市封鎖が人の命を奪っていく中で、撮影はどのように行ったのでしょうか?

監督:困難を極めました。電力の供給が止まって、プラスチックを燃やしてリサイクル燃料を作って発電機を動かしてカメラを充電しました。1時間撮影したら、また充電の繰り返しでした。リサイクル燃料を作る様子をyoutubeで見せています。

― 極限状態にある人をどこまで撮っていいのか、どのような思いで撮影を?

監督:私自身が封鎖された中で暮らしていたので、撮った人たちと同じ立場です。私のカメラを世界への窓と捉えて、撮影に応じてくれました。人々が喜んでいる時には、私も喜び、悲しんでいる時は、私も悲しみの中にありました。私たちの状況を伝えなければという思いで撮っていました。

― 草を摘んでいた女の子や、食べ物を求めたいた人など、映画に出てきた人たちとは今も連絡が取れているのでしょうか?

監督:一部の人とは連絡が取れています。草を摘んでいた少女には連絡がつきません。食べ物を求めてきた男性は、二日後に亡くなりました。
ヤムルークは、2018年にシリア政府とロシアにより8割が破壊されてしまいました。
2021年初頭まで、シリア軍が中に入るのを禁止していました。今は徐々に入れるようになりましたが、シリア政府と問題のない人に限られています。かつて50万人がいましたが、今は3千人になってしまいました。

― 詩のようなvoice overは、監督自身が作られたものですか?

監督:私自身が作ったものです。

― 路上のシーンが多かったですが、家の中のシーンはあえて撮らなかったのでしょうか?

監督:家の中は暗くて撮影が難しかったし、皆、食べる物を探して、一日中外を歩いていて、路上で暮らしているような状況でした。

― 子どもたちの笑顔に救われました。込められた思いは?

監督:子どもたちは未来そのもの。アサド政権が老人を殺しても、未来はあります。
子どもは脆いものでもあるけれど、力があって強いもの。我々が失った力を持っていると思います。

― ピアノの伴奏で歌っていた曲は?

監督:あのグループのメンバーが作った歌です。彼らが封鎖下で作った曲がいくつもあります。

― 撮影は監督一人で?

監督:9割は私自身が撮っています。私が映っている部分は、友人が撮っています。

― 液体を配っている場面がありましたが・・・

監督:ポテトチップの工場があったところで、ポテトチップのフレーバーをお湯に溶かして配っていました。

― 少しの食べ物を分けて食べる姿が強烈に印象に残っています。

監督:特にこだわって、分け合って食べるシーンを入れました。

― 撮影は2015年までですが、それ以降は不可能だったのでしょうか?

監督:私自身、ヨーロッパに移住するまで、あそこで撮影は続けていましたが、本作では、2013年から2015年の状況を伝えたいと思いました。その後の、イスラム国の支配や、強制移住という歴史については、本作では触れませんでした。


アブダッラー・アル=ハティーブ監督 
1989年、ヤルムーク生まれ。ダマスカス大学で社会学を学ぶ。
人道援助協会「Wataad」を友人たちと設立し、ヤルムークを中心としたシリア国内の諸地域で多数のプロジェクトを実施していた。
現在、ドイツ在住。難民認定されている。


(景山咲子)

山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)2021 受賞作品 明日14日一部が上映されます

本日、山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)2021の閉会式・表彰式が行われました。

受賞作品の一部が、明日10月14日(木)オンラインで上映されます。
詳細はこちらで!
https://online.yidff.jp/program/awarded-films/


受賞結果
https://online.yidff.jp/

◆インターナショナル・コンペティション
審査員:東琢磨(審査員長)、安里麻里、斉藤綾子、マーク・シリング、志賀理江子

ロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞)
『理大囲城』監督:香港ドキュメンタリー映画工作者
 ★オンライン上映 10月14日(木)21:30〜

山形市長賞(最優秀賞)
『カマグロガ』監督:アルフォンソ・アマドル
 ★オンライン上映 10月14日(木)17:30〜

優秀賞
『ボストン市庁舎』監督:フレデリック・ワイズマン

『ナイト・ショット』監督:カロリーナ・モスコソ・ブリセーニョ
 ★オンライン上映 10月14日(木)15:30〜

審査員特別賞
『最初の54年間 ― 軍事占領の簡易マニュアル』監督:アヴィ・モグラビ
 ★オンライン上映 10月14日(木)13:00〜

◆アジア千波万波
審査員:広瀬奈々子、イギル・ボラ

小川紳介賞
『リトル・パレスティナ』監督:アブダッラー・アル=ハティーブ
 ★オンライン上映 10月14日(木)19:30〜

奨励賞
『ベナジルに捧げる3つの歌』監督:グリスタン・ミルザイ、エリザベス・ミルザイ
 ★オンライン上映 10月14日(木)17:00〜

『メークアップ・アーティスト』監督:ジャファール・ナジャフィ

特別賞
『心の破片』監督:ナンキンサンウィン

市民賞
『燃え上がる記者たち』監督:リントゥ・トーマス、スシュミト・ゴーシュ

山形国際ドキュメンタリー映画祭 『ベナジルに捧げる3つの歌』(アフガニスタン) (咲)

アジア千波万波
奨励賞


★奨励賞を受賞し、10月14日(木)17:00よりオンライン上映されます。

ベナジルに捧げる3つの歌
Three Songs for Benazir
アフガニスタン/2021/22分
監督:グリスタン・ミルザイ、エリザベス・ミルザイ Gulistan Mirzaei, Elizabeth Mirzaei
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*物語*
アフガニスタン、カーブルの国内避難民の難民キャンプ。
10代の若い夫婦。シャイスタは、妻のベナジルに歌を捧げ、幸せいっぱい。
空を見上げ、難民キャンプを見張る飛行船について説明するシャイスタ。
どうせ多国籍軍かターリバーンにやられて死ぬのが運命と語る。
シャイスタは父に学校に行かせてくれと頼むが、「学校がどこにある?」と言われる。
「なら、アフガニスタン軍に入らせて。教育が受けられるから」と頼むが、ケシ畑の収穫を手伝いに行けと言われてしまう。

ベナジルのお腹の中の子に話しかけるシャイスタ。ベナジルは笑いころげる。
友人がケシ畑に行こうと誘いにくるが、シャイスタは阿片に手を出したら終わりと拒否する。
シャイスタは、「入隊して立派になって戻る」と、軍に入隊申請に行く。
字が書ける人に申請書に記入してもらい、保証人をたてて入隊許可が下りる。
だが、家族は、「お前が国軍に入ると、ターリバーンに八つ裂きにされる」と恐れる。

4年後、ベナジルが二人の息子を連れて向かった先は、薬物依存治療センターだった・・・

たった22分と思えないほど、中味の濃い作品でした。
小学校3年生の時に、ヘルマンド州から逃れてカーブルの難民キャンプに来たシャイスタは、字がろくに書けなくて、教育を受けたい思いが強いのに、その機会が得られません。
即興でベナジルに歌うシャイスタの目はキラキラ輝いていて素敵です。その彼も、結局、ケシ畑に行くしかなかったのでしょう。1979年以来、落ち着かないアフガニスタンですが、ターリバーンの台頭でさらに状況は悪化しそうです。アフガニスタンの人たちが、平穏に暮らせる日がいつ来るのでしょう・・・(咲)



◆監督質疑応答より
監督のグリスタン・ミルザイとエリザベス・ミルザイに、お二人のお子さんも一緒に登壇。

―シャイスタとの出会いは?
二人で難民キャンプでボランティアをしていた時にシャイスタと出会いました。
希望と夢にあふれた顔をしていたのが印象的でした。戦争を逃れて、このキャンプに来ていました。私も戦争を逃れてイランにいたことがありますので、意気投合して友情を培うことになり映画を作ることになりました。
映画は、10年にわたる友情の結果として出来上がりました。

― 4年間、撮影できなかった事情があるのでしょうか?
2016年にエリザベスが妊娠してアメリカに移住したので、その間、連絡がなかなか取れませんでした。やっと甥っ子がシャイスタを見つけてくれた時には、橋の下でヘロインを吸引していました。甥っ子に頼んで薬物依存治療センターに入れてもらいました。
ちょうど別の企画でアフガニスタンに戻りましたので、最後のシーンとして薬物依存治療センターにベナジルが子どもを連れて会いに行く場面を撮りました。

― その後、シャイスタたちは?
アフガニスタンのあのような状況の中で、なかなか連絡も取れません。
3か月前に甥が訪ねた時には、大変な状況下で暮らしていました。
シャイスタと家族をアメリカに連れてこようという努力も続けています。

― 国軍に入隊していたら、薬物に手を出すこともなかったのではないでしょうか?
シャイスタとベナジルのラブストーリーとして、撮り始めて、これほど大きく膨らませるつもりはありませんでした。軍の脅威や、薬物の問題はそこにあるものなので、その場面を入れました。

―長編に発展させる計画はありますか?
尺をどうするか考えました。40分程あったものを上映しやすいよう縮めました。
短編を作るのにも労力がかかりましたので、長編を作るかどうか・・・
シャイスタ一家がアメリカに来ることができたら、また何らかの形で撮りたいと思います。

―あのような即興の歌は、アフガニスタンではよく歌われるのでしょうか?
皆、よく歌います。
シャイスタはパシュトゥーン語で歌っていたので、私たちはその場では何を歌っているのかわからなかったのですが、翻訳してもらって、こんな内容の詩を歌っていたのだと驚きました。
アフガニスタンでは、詩を歌にして歌う伝統があります。

― アフガニスタンの人々に捧げると最後にありました。どんな思いを?
映画ができた後に、ターリバーンがアフガニスタンを制圧したので、この言葉を追加しました。親友が9月にターリバーンに殺害されたばかりということもあります。


質疑応答アーカイブ  ★期間限定:10月14日(木)23:59まで
https://youtu.be/djoRmxnjjQ8

(景山咲子)