イスラーム映画祭5 『ラグレットの夏』 3つの宗教が共存した時代のチュニジア (咲)

アラブ、ユダヤ、キリスト教徒が共に暮らしたチュニジアの最後の夏の青春物語
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『ラグレットの夏』
原題:Un été à La Goulette
英題:A Summer in La Goulette
監督:フェリッド・ブーゲディール / Férid Boughedir
1996年/チュニジア=フランス=ベルギー/89分/ アラビア語・フランス語・イタリア語

1966年夏、チュニジアの首都チュニス近くの海辺の町ラグレット。アラブ人でムスリマのマリヤム、ユダヤ教徒のジジ、そしてクリスチャンのティナ。 同じアパートの同じ階で家族とともに暮らす3人は、この夏、一緒に初体験をしようと画策する・・・

モスクだけでなく、立派なシナゴーグや教会。
ラグレットは、アラブ、ユダヤ、キリスト教徒が共に暮らす町。
宗教の違う3人の年頃の娘たちが、裁縫をしながら、初体験の相手を探そうと算段するおしゃべりに余念がない。
一方、親たちもお隣どうし、宗教が違っても親しくしている。安息日に働くことのできないユダヤ人の父親は、ムスリムの父親に卵を茹でてくれと頼んだりしている。
このアパートの大家でマリヤムの伯父にあたる独身のダブル・ハジは、マリヤムの家でお隣の差し入れのユダヤ料理を出されて、あからさまに嫌な顔をする。
「ユダヤ人は新祖国イスラエルに行け」という言葉に、「この国のユダヤ人は、独立戦争に尽くした者もいるのに」と反論するムスリムの男性。
ユダヤ人のジジは、「もしムスリムと結婚したら、親戚が皆、口をきかない」と言われる。
別の父親は、相手がユダヤとは!と嘆く。宗教の違いを越えての恋は難しい。

娘たち3人、8月15日に宗教に関係のないカルタゴ遺跡で処女を捨てると決める。
よりによって聖母の日だ。教会からマリア像が輿に載せられて町に繰り出すのをよそに、
3人は電車でカルタゴに向かう・・・

マリヤムが同じ年頃の青年に夢中になっているのに、伯父のダブル・ハジはマリヤムによこしまな気持ちを抱いていて、母親に「マリヤムを任せてくれれば、第二の父にもなる。家賃も帳消しにしてやる」と露骨な言葉を投げかける。
今からヴェールの被り方を教えてやってというダブル・ハジの頼みをたてて、マリヤムにヴェールを被らせる母。そして、素肌にヴェールだけをまとってマリヤムがダブル・ハジを訪ねたことが思わぬ幕切れを招く。

この翌年、第三次中東戦争勃発。
ユダヤ人に続き、キリスト教徒も出て行く
彼らは決してラグレットを忘れないだろう・・・という言葉で映画は終わる。


◆上映後トーク
《激震1967――アラブ世界の転換点、第三次中東戦争》
【ゲスト】 佐野光子さん(アラブ映画研究者/写真作家)

宗教の違う人たちが共に暮らしていた最後の年を、ドタバタのコメディで描いた『ラグレットの夏』。上映後、この作品の上映を決めた藤本さんの思いも含めて、佐野光子さんとの対談形式でトークが行われました。(抜粋してお届けします)

藤本:2000年 国際交流基金主催の地中海映画祭で上映されたのと同じ、35mmフィルムで上映。フランスからデジタルリマスターを利用してくれと言われたけれど、フィルムにこだわりました。

佐野:2000年に初めてアラブ映画を観て、それをきっかけに映画の研究を始めました。

藤本:トークの主旨。この映画の舞台になっている年の翌年1967年に第三次中東戦争が起こりました。トランプ大統領がエルサレムに米国大使館を移したことなどの背景もわかると思います。

佐野:日本では、1948年の中東戦争から、第何次と数えますが、アラブでは勃発した年で語ります。
1947年 国連によるパレスチナ分割案。アラブ側は拒絶。内戦状態に。
1948年 イスラエル独立宣言
1956年 エジプトのナセル大統領が、イギリスからスエズ運河を取り戻す。
フランスとエジプトの共同で作ったスエズ運河を、エジプトがイギリスの統治下になった為、イギリスが掌握していた。すっきりした勝利ではないがアメリカの後押しもあってスエズを取り戻す。(第二次中東戦争)
1967年 第三次中東戦争。6日戦争。ナクサ(大破局/大敗北)
1967年 ヨルダン河西岸とガザも占領される
1970年 ナセル死去。葬儀に500万人以上が参列。アラファトやカダフィも参列。
ナセルは辞意を表していたが続けていた。
1967~70年の大きなうねり
1970年 ヨルダン内戦(黒い9月革命)
ヨルダンがPLOを排除。PLOはレバノンへ
1975~90年 レバノン内戦
PLOがレバノンに移ったことにより、レバノンでのパレスチナ難民がさらに増加する。
クリスチャンとムスリムの人口の均衡が破れた。
石油危機  (トイレットペーパー買占め)

1981年 ゴラン高原をイスラエルが併合する。(『シリアの花嫁』の舞台)
チュニジア ユダヤ人が10万人いたのが、今は1500人に。
エジプトも1997年以降 ユダヤ人のコミュニティ喪失。
『ラグレットの夏』 まだユダヤ人、ムスリム、クリスチャンが共存していた時代

アラブ映画の中のユダヤ人
1954年 『ハサンとモルコスとコーエン』
1940年代に舞台で好評だったものの映画化
2008年にリメイクされるが、ユダヤ人は抜けて『ハサンとマルコス』(2009年TIFFで上映。末尾に詳細)
クリスチャンのオマー・シャリフがムスリム役を演じている
逆に、ムスリムのアラブの喜劇王アーデル・イマームがクリスチャンを演じている

今ではエジプト映画でユダヤ人が出てくることがない。
参考:『ラミヤの白い凧』(2003年)ムスリマとユダヤ男性の恋物語

映画の中のアラブの敗北
『遺された時間』2009年 エリア・スレイマン監督
ナセルの死のニュースが流れ、舞台が1970年だとわかる。
時代背景として、よく出てくる。(玉音放送のよう)

『雀』1972年 ユーセフ・シャヒーン監督  
ナセルの敗戦を伝える演説を聞いて、女性が「私たちは闘う!」と叫ぶ。
映画ができたときには検閲に引っかかった。闘う!という部分が受け入れられなかった。

1979年 イラン・イスラーム革命、ソ連のアフガン侵攻が起こり、パレスチナが見捨てられていく。


★『ハサンとマルコス』
東京国際映画祭 アジアの風
<2009日本におけるエジプト観光振興年>記念事業 エジプト映画パノラマ~シャヒーン自伝4部作と新しい波 の中の1本として上映された。

[解説]
『アラビアのロレンス』の名優オマー・シャリフとアラブの喜劇王アーデル・イマームの夢の競演!イスラム教徒とキリスト教徒の緊張をコミカルに描く。エジプトにおける女性の人権を考える社会派ドキュメンタリーを併映。
[あらすじ]
この映画はキリスト教神学者ボロスとイスラム教徒の家長マフムードの物語である。ふたりは、それぞれが相反する宗教の過激派による暗殺から生き残り、逃げ延びていた。そしてエジプト政府による目撃者保護プログラムの下に置かれ、キリスト教徒はイスラム教徒のふりをし、イスラム教徒はキリスト教徒のふりをするという、まったく別のアイデンティティを装っていた。カイロ近郊の下町にある隠れ家に避難した時、見ず知らずのボロスとマフムードの間に友情が花開いていく。この映画は、異なった宗教を持つ人々の間で、愛と友情を育むことはできるのかどうか、その可能性を探っていく。
(東京国際映画祭のサイトより)

景山咲子





イスラーム映画祭5 『ベイルート - ブエノス・アイレス - ベイルート』  (咲)

レバノン移民4世の女性が曽祖父の故国で血を分けた人たちと会うまで

『ベイルート - ブエノス・アイレス - ベイルート』
2012年/アルゼンチン/84分 /スペイン語・アラビア語・英語
監督:グレイス・スピネリ、エルナン・ブロン / Grace Spinelli、Hernán Belón
原題:Beirut Buenos Aires Beirut

ブエノス・アイレスで暮らすグレイスは、ある日、大伯母から、彼女の父(グレイスの曾祖父)が母が亡くなった後、子どもたちを置き去りにして、故国レバノンに帰り、そこで余生を過ごし他界したことを聞かされる。
グレイスは15歳の時、テレビでイマームが祈るのを見ていたときに、母から曽祖父はアラブ人でムスリムよと聞かされていた。
やがて大伯母が亡くなり、グレイスは、曾祖父の軌跡をたどり、ついにはレバノンに赴く。

*****
今は移民局となっている旧移民ホテル。
グレイスは資料室に曽祖父の入国記録を探しにいく。
係りの男性も移民の子孫。
1900年頃、入国。
チェラさんが整理した膨大なファイル。
移民が多かったのは、イタリア、スペイン、フランスの順。
入国した時に、名前をどう記載したか・・・
言葉が違うため表記を間違えていることもある。
古いファイルは、煙草の巻紙に使われてしまったものもある。
結局、曽祖父の入国記録は見つからない。

曽祖父は60歳のときに妻が亡くなり、祖国で死ぬとレバノンに帰国。
レバノンから送られてきた手紙。中には読まれなかったものもある。
アラビア語の教師に手紙を訳してもらう。
1975年 最後の手紙。(注:レバノン内戦勃発の年)
4人の子どもたちに宛てて、「95歳になった。しばらく手紙をもらってない。手紙がほしい。妻のハディージャからもよろしく」と書かれている。

祖母は母親がカトリック。ムスリムの父に内緒で洗礼を受ける。
父は毎日祈っていたという。

レバノンにいる姪カリーメがたくさんの手紙を送ってきていた。
カリーメが1947年に送ってきた手紙を持って、グレイスはレバノンへ。

弾丸の跡が残るビル
4本のミナールがある大きなモスク
一つの建物で、ユダヤ、シーア派、キリスト教と、様々な宗派の特徴が見られるもの。

曽祖父の故郷クファルキラは、南レバノンのイスラエルに接した危険地区にあり、入るのに軍の許可がいる。
シドンに許可をもらいにいく。パレスチナ難民も多いところ
北へ。キリスト教徒が隠れた洞窟や、フェニキアの町ビブロスへ。

いよいよ南へ。
ブエノス・アイレスに住むレバノン移民の子孫アントワンがちょうどレバノンに里帰りしていて、案内してくれる。

ヒスボッラーの黄色い旗。
イスラエルの攻撃を受ける危険があるといわれる。

村長の家へ。かつて曽祖父の家だった。曽祖父が98歳で亡くなった家。
村長、「カリーメは1948年、畑仕事をしていたところ、イスラエルに殺された」と話してくれる
曽祖父はレバノンに戻って再婚したが、その彼女との間に子どもはいない

カリーメの息子ハビーブが生きていると判る。その日は畑仕事に出ているので、翌日会いに行くことに。
翌日、ハビーブとその家族が大勢で迎えてくれる。
ハビーブは、物心つく前に母カリーメが亡くなり、母の記憶がない。
グレイスが持っていった手紙は母の唯一の形見。
息子の成長を見ずに亡くなった母。

曽祖父の墓参り。
1980年6月9日没

血を分けた海の向こうの家族たちと過ごした日々・・・

*******

壮大なファミリーヒストリー。
ハビーブの家族の中には、グレイスに顔立ちの似た女性もいて、まさに血を感じさせてくれます。
手紙を頼りに、ついには曽祖父の故国レバノンで親戚に会い、お墓参りも果たしたことに胸が熱くなりました。


◆上映後トーク《レバノン移民のルーツ探しにみる出会いと別れ》
【ゲスト】 池田昭光さん(文化人類学者/東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・研究機関研究員)

シーア派ムスリムのレバノン移民は、西アフリカに多いイメージが強く、アルゼンチンに行ったシーア派ムスリムがいたことを知り興味深いと池田昭光さん。
1900年頃の渡航はレバノン移民の初期世代。
本作は、監督のレバノン移民としてのルーツ探しであるが、極めて私的で親密な作り。
レバノンや中東の政治・宗教的な問題は触れられているが周辺に留まっている。
レバノン移民についてわからなくても理解できる映画だとして、このトークではレバノン移民についての詳細は説明せず、グレイスの曽祖父を辿る旅を確認する形で進められました。

なお、本作は48分のアル・ジャジーラ放送版(英語字幕付き)をYouTubeで観ることができます。

景山咲子


イスラーム映画祭5 『銃か、落書きか』西サハラの実情  (咲)

モロッコの侵攻に非暴力で闘う西サハラの人たち
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『銃か、落書きか』
原題:Rifles or Graffiti
2016年/スペイン/52分/ スペイン語・ハサニーヤ語・英語
監督:ジョルディ・オリオラ・フォルク / Jordi Oriola Folch

1975年にスペインからの独立過程でモロッコに侵攻され、領土の大半を占領され続けているアフリカ北西の「西サハラ」。
武力闘争で占領者モロッコに圧力をかけることを望む若者もいる中、活動家アミーナートゥ・ハイダルはあくまで非暴力で闘おうとメディアチームを結成し、「西サハラ」の実態を世界に発信する。現地で命懸けの抵抗運動を続けるサハラーウィたちの焦燥と葛藤を描いたドキュメンタリー。

******
「極秘に撮影された映像」とまず掲げられる。

1975年以来、モロッコに支配されている西サハラ。
メディアチームは、隠れて撮影。見つかると捕まる。
ジャーナリストは妨害され、助ける活動家も排除される。

アルジェリア内の難民キャンプの少女。
スペインに行って、家や国があるのがわかった。

民族衣装の女性が壁にスプレーで「国連は西サハラ占領をやめさせろ」と大きく書く。

1884年 スペイン領に
1975年 スペインのフランコ将軍が亡くなり、モロッコが侵攻してくる

イスラエルとフランスの案で壁が作られる
モロッコから50万人が入植。内、20万人が軍人
人口の3割のサハラーウィ。非暴力の文化を維持したい。

メディアグループの「スナイパー」と呼ばれる男
隙を見て撮影するのが上手い

1991年 停戦。住民投票するといいながら、いまだに行われていない。

少女の頃に拷問を受け、活動するきっかけになったと語る女性。
占領反対の落書きをする。

デモ参加者を逮捕。
沙漠に埋められた人も多数。

16年投獄されていた女性。
毎日拷問。一日に5分しか陽の光を見せてもらえなかった。

男性ダーダッシュ。死刑から終身刑に減刑。その後、赤十字に助けられる。

女性活動家アミネトゥ・ハイダル。若い時に空港でハンスト。活動を続けている。

ハサン・ナスーリア。スペインに亡命したメディアチームの男性。

2009年 沙漠の壁の前でデモ。「恥の壁」

恐怖に打ち勝つには、殉教者や闘っている人に思いを寄せる


◆3月19日(木)1時半からの上映後のトーク
《“恥の壁”の両側から――占領地と解放区、難民キャンプに暮らす西サハラの民》
【ゲスト】 岩崎有一さん(ジャーナリスト/アジアプレス)
公式HP: https://iwachon.jp/

西サハラ。何が問題かわからない人が多い。
観光でも入れる。

1995年 初めて訪れる。
実情がよくわからなかった。
この映画は情報量のつまったもの。

*西サハラ 2つの地域
海側:モロッコの占領地
砂の壁で分離。壁の内側のラスット解放区にサハラーウィが住む。
アルジェリアのケンドゥーフの南に難民キャンプ。

★前提1 誰がサハラーウィか?
遊牧の民  移動している。
顔立ち:モロッコ人との間に大きな違いはない。
ヨーロッパ風、アラブ風、サブサハラ風等 見分けられない。
モロッコでは、「南モロッコ」もしくは「サハラ」と呼ぶ。
サハラーウィは、「西サハラ」と呼ぶ。
「西サハラにようこそ」といわれれば、サハラーウィ。

アラビア語の方言 ハッサニアを話す
かつてモロッコの支配下にあった史実はない

★前提2 複雑ではない領土問題
1884年 スペイン領サハラが確定
1973年 ポリサリオ戦線結成
1975年 モロッコ 緑の行進で越境してくる
スペインが西サハラをモロッコとモーリタニアに割譲する密約。
スペインが依然施政国だが、スペインは領有を放棄。
モロッコの西サハラ領有を認める国はない。

地名の表記
アラビア語の表記に従ってスペインは表記。
モロッコはフランス語風に表記を変える。

★前提3  解決策は合意済み
1978年 モーリタニアはポリサリオと停戦
住民投票さえさせてくれれば解決する。

問題点は何か?
西サハラに入るジャーナリストは潜伏しなければならない。
入るのは簡単。モロッコはビザなしで入れて、モロッコから観光客としてバスに乗ればそのまま西サハラに入れる。
町に私服警官がいて監視している

入れない人たち
・人権団体
・弁護士、政治家の視察
・ジャーナリスト
実情を知られたくない

弾圧が続く日常。
声をあげると、直ちに政治犯として捕まる。
逮捕や収監はまだよい。私服警官に連れ去られ沙漠に捨てられる。運がよければ車が通りかかるなどして助かる。

デモ 「独立を!」では捕まるので、「仕事を!」と。
命がけのデモ。周りに外国人の目もあるので、その場で捕まることはない。
自宅に戻るところをつけられて逮捕されたりする。
デモをしたければ難民キャンプに行けと。

サハラーウィの行方不明の人たちの登録者 400名を超える

あおられる憎悪
入植者を利用
学校ではモロッコの地だったと教える。
入植をモロッコが貧困者に対して斡旋している。仕事と住居を与えて、支援金も出している。
占領地では公務員の給与はモロッコの倍。
難民キャンプに暮らすサハラーウィの中からめぼしい人を選んで、お金を使って西サハラに住まわせることもある。

ダハラの町。入植が進む。
西サハラにはインフラも学校もない。
大学はモロッコに行くしかない。
仕事がない。資源もあるがサハラーウィには仕事を与えない。

事情を知らずに滞在すると普通に心地よい。
問題に気づかれてないことが問題。
メディアチーム以外にもグループがあって決死の覚悟で外部に伝える活動をしている。

45年続く難民キャンプ。
テントの中が全世界。キャンプで生まれた第二世代、すでに第三世代も。

*****
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岩崎有一さんは、最後に、「上映してくれた藤本さんに拍手を!」とトークを締め括られました。
西サハラについては、地図の点線の意味するのは何だろうと思っていたものの、全く実情を知りませんでした。命がけで撮った本作を通じて、何が問題なのかがよくわかりました。そして、平和裏に解決することが難しいことも・・・
難民キャンプで暮らす少女がスペインに行ったことにより、普通の暮らしがどういうものかを知り、国家というものが存在することを知ったという言葉が痛かったです。
非暴力のデモに参加しただけで捕まった人たちが、刑務所にぎゅうぎゅう詰めで雑魚寝させられている様子にも涙が出ました。
西サハラの人たちが独自の文化を守りながら平穏に暮らせる環境の実現を願うばかりです。
沙漠の民にとって、もともと国境など無意味なものなのですから。

景山咲子






イスラーム映画祭5 シリア難民を描いた『ゲスト:アレッポ・トゥ・イスタンブール』  (咲)

爆撃で家族を失ったどうしが、あらたな家族に
~ 爆撃でアレッポをあとにした女性たち ~


『ゲスト:アレッポ・トゥ・イスタンブール
原題:The Guest: Aleppo to Istanbul
2017年/トルコ=ヨルダン/89分/アラビア語・ トルコ語・ロシア語
監督:アンダチュ・ハズネダルオール / Andac Haznedaroglu

シリア、アレッポ。
爆撃で家族を失った8歳のリナは、まだ乳飲み子の妹を連れ、隣人のマリヤムたちと国境を越えイスタンブールに避難する。マリヤムもまた爆撃で家族を無くしていた。大勢のシリア難民が暮らす半地下の部屋に迎え入れられるが、家賃滞納で追い出され公園で寝起きすることになる。一度ははぐれてしまったリナとマリヤムだが、ようやく再会。マリヤムはリナのママになると約束する。やがて、ドイツにいるリナの叔父からヨーロッパに渡るためのお金が届く。リナはこのお金でシリアに帰ろうと駄々をこねる・・・

冒頭、少女たちが地球儀を回しながら、「サウジアラビアはだめよ。シリア人は嫌われてるの」「ロシアは美しい国!」とはしゃいでいます。ロシアはシリア政府と結託して、市民を爆撃しているのに!  
爆撃で家族を失った者どうしが、過酷な避難生活の中で心を寄せ合う姿に胸が熱くなりました。
翻って、国民を守るべき国家が、国民の平穏に暮らす権利を奪っていることに憤りを感じました。


◆2020年3月15日(日) 11:00からの上映後トーク
【2011年3月15日~革命から10年目のシリアは今~
ゲスト: 山崎やよいさん(考古学者/シリア紛争被災者支援プロジェクト
「イブラ・ワ・ハイト」発起人
https://iburawahaito.wixsite.com/iburawahaito/about

「今は考古学からは離れているので、好きなほうの好古学者です」と自己紹介された山崎やよいさん。遺跡の発掘でシリアに行き、シリアの方とご結婚。アレッポに住んでいらしたとのこと。
トークの中から、印象に残った言葉をお届けします。

少女たちがアレッポ方言でしゃべっていて、懐かしくて、それも泣かせてくれました。
3月15日はシリアで革命が起こった日。その日にここで話せるのもご縁。

シリアで起こっているのは戦争ではなくて、大虐殺。政権に従わない者はテロリストとされてしまう。
1989年からシリアに。父アサドの時代。
『カーキ色の記憶』に描かれていたように、町全体がグレーだけど、人々は優しい。
国家とシリアの人々は別にして考えてほしい。
好きなように発言できない世界。のちに夫になる人が「ここではいえないことが・・・」と言っていたことを実感。

マリヤムたちが国境付近で民兵のような組織に絡まれますが、自由と尊厳を語る有象無象のグループがいます。
リナがシリアに帰りたいと言っていますが、無理だろうなと。
シリアは人類史上、重要なことがたくさん起こった地です。

シリア各地の写真 約50枚。
ウマイヤドモスク、ローマ時代のジュピター神殿(今はハミディーエスークの一部に)、ユーフラテス河、大きなダムが二つできて、せき止められた一つがアサド湖。多くの遺跡がダムの底に沈んだ。 考古学的には昔からずさんだった。
農家の客間の布で隠された場所に布団がたくさん。誰が来ても泊まれるように。羊毛の綿を冬の前には、綿を洗っている。
おっぱい型の屋根の家並み。 半遊牧民。
アレッポ。やよいさんの住んでいたニール通り。アレッポ西部で、それほど被害にはあってないが、今は住人が変わった。住んでいた人たちが出てしまって、空き家に金鉱の農村の人たちが移り住んでいる。

シリアでの紛争。
2010年のアラブの春。市民の平和的デモを政府が武力弾圧。
その後、IS(イスラーム国)などの介入。ISのことがセンセーショナルに日本などに伝えられたが、本質は政府の弾圧。 政府が刑務所にいた過激派を解放して町に放った。
ロシアやイランが政府をバックアップ。シリア政府はすべての反体制派をテロリストと名指しし、対テロ戦争が免罪符のようになっている。
SNSで伝えてくるのはフィルターがかからない情報。
2017年、アサド大統領が、シリア国民とは、国籍を持つ者ではなく、シリア(アサド政権)を守る者と発言。国中に “アサドのシリア”のポスター。
「へヤール アサド」のへヤールはアラビア語で選択という意味と胡瓜の意味の両方があって。胡瓜のアサドと。
バシャールが大統領になった時、ポスターは最初は控えめだった。そのうち、バシャールだけでなく、父と亡き兄の写真が加わり、最近は息子ハーフェズの写真も掲げられるようなった。
娘の小学校で、アサド(父)のステッカーを購入して、ノートなどに貼るように指示された。

アサドは今、コロナウィルス感染者のことを言ったら罰すると宣言して、緘口令を敷いている。

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最後に、この後、5時に渋谷駅井の頭線からJRに行く通路にある岡本太郎の壁画の前で、「シリア大空襲」のグループが、市民への空爆をやめるように訴える写真を撮るとの案内がありました。
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帰りに参加し、山崎やよいさんともお話することができました。
ご主人は、デモに張り切って参加していたけれど、残念ながら他界。でも、生きていたとしたら、きっと政権から拷問を受ける羽目になったと思いますと、やよいさん。

私が昭和63年にシリアに行ったことがあると、参加していたシリアの男性に言ったら、「その時、僕は2歳でした」と。
私は、ヨルダンからシリアへと旅をしたのですが、明るいヨルダンに比べて、シリアは人々が暗い感じがしました。『カーキ色の記憶』を観て、まさに合点がいったことを、やよいさんとお話しました。
ナジーブ・エルカッシュさんが、「昔はよかった」と2010年以前にシリアを訪れた人は言うけれど、そうじゃないとおっしゃっている意味をあらためて噛み締めました。

景山咲子





イスラーム映画祭5 預言者ムハンマドの半生を描いた『アル・リサーラ/ザ・メッセージ アラブ・バージョン』  (咲)

イスラームの起源を描いた歴史大作

シリア人のムスタファ・アッカド監督がハリウッドで製作した預言者ムハンマドの半生『ザ・メッセージ 砂漠の旋風』(1977年日本公開)を、同じ設定でアラブ人の俳優を起用して製作したバージョンがあると知ったのは、2006年の第2回アラブ映画祭での「ムスタファ・アッカド監督追悼講演会」の折でした。ナジーブ・エルカシュさんがハリウッド版とアラブ版のいくつかの場面を比較して、違いを説明してくださいました。アラブ版をいつか観たいと思っていたのが実現しました。
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藤本高之さん、ほんとにありがとうございます!

1回限りの上映とあって、チケットは売り出しから30分程で売り切れました。
来年のイスラーム映画祭でも上映することを藤本さんは考えているようです。
見逃した方、来年、ぜひ!

『アル・リサーラ/ザ・メッセージ アラブ・バージョン』〈デジタル・リマスター〉
原題:Al-Risâlah
英題:The Message
監督:ムスタファ・アッカド / Moustapha Akkad
1976-2018年/リビア=モロッコ=エジプト=サウジアラビア/207分/アラビア語・英語

7世紀に誕生したイスラームの起源を描く歴史絵巻。
クライシュ族の名門ハーシム家に生まれたムハンマドは、40歳のある日、ヒラーの洞窟で唯一神(アッラー)の啓示を受ける。教えを広めるが、多神教の根強いマッカの支配層に迫害されてしまう。信徒たちとマディーナに移住しイスラーム共同体を結成する。やがてマッカも治め、アラビア半島を統一する。

◆上映前に藤本さんより映画を見る上での簡単な解説がありました。

主人公の預言者ムハンマドは、声も姿も描かれていない。
ムハンマド以外にも、正統カリフの4人、最初の15歳年上の妻ハディージャ、彼女との間に生まれた6人の子、ハディージャ亡き後に娶った妻たちと、その間に生まれた息子子1人も出てこない。
助演の人たちによって主役を描いている。
叔父ハムザ(ムハンマドの父の弟):ポスターの男性。映画が始まってから45分ほどして馬に乗って出てくる。
最初に出てくるのは、伯父のアブー・ターリブ。ムハンマドをバックアップしていた人物。
映画は、ムハンマドが610年に啓示を受けて、632年に亡くなるまでの22年間を3時間半で描いている。

「1時間23分頃、ヒジュラ(移動)するところで休憩が入ります。
ここがウンマ(イスラーム共同体)だと思ってお楽しみください」

******

ムハンマドが神の啓示を受け、いかに教えを広めていったかが、壮大な沙漠を背景に描かれ、ついにはマッカの多神教を信じていた人たちをも信徒となる。

最後の場面では、イラン・イスファハーンの王のモスク(現イマーム・モスク)、スペイン・アルハンブラ宮殿、トルコ、カザン?、インドネシア、アフリカなど各地のモスクと祈りの様子が映され、世界各地にイスラームの教えが広まったことが示されました。
一番最後は、イスファハーンの王のモスクが夕陽の中に映るシルエット。
映画が作られた当時は、イランはまだイスラーム政権ではなかったことを思うと複雑な思いがあります。(いろいろな思いがありますが、ここでは伏せておきます)


◆上映後トーク 《ムスタファ・アッカド没後15年――アメリカにイスラームを伝えようとした男》
【ゲスト】ナジーブ・エルカシュさん(ジャーナリスト
「リサーラ・メディア」代表 https://risala.tv/

「アル・リサーラ」は、メッセージという意味
ナジーブさんの会社名「リサーラ・メディア・プロダクション」

メディアはメッセージ性をはずせない。
どのメディアや作品でもメッセージ性が入る。
作った人の見方が入る。
アッカド監督は、アラブ映画の中でも独特の考え方を持った方。
監督の町アレッポの料理は手間をかけたもの。49の前菜  オリーブの木は30種以上。私(エルカッシュさん)の海辺の町の料理はシンプル。アレッポは保守的でありながら、文化を大事にしていて、食事が終わると楽器を奏でるような町。

アレッポは様々な宗派の人が住む町。
かつては難民を受け入れていた町だった。
第二次世界大戦の時、ナチスがギリシャに入ったとき、15000人位のギリシャ人をアレッポが受け入れた。
1915年、トルコのアルメニア人虐殺の時には、多くのアルメニア人を受け入れた。
ユダヤのシナゴーグも、アレッポのユダヤ人も独特。

アッカド監督の製作の動機は、「もやもや」
ハリウッド映画でアラブ人は悪いイメージ。
アリババは、本来英雄なのにハリウッドでは悪役。
アラディンをハリウッドが描くと途中でターバンがなくなる。
冒頭の歌。「あなたの顔が気にいらないと耳を切り取る」→ 抗議してはずさせた。

★2006年アラブ映画祭の折にあったナジーブさんの説明:
アッカド監督の生まれ育ったアレッポの町は、宗教的には保守的だが、芸術を愛する町で、色々な文化が交流してきた町でもある。イスラームが入る前に盛んだったキリスト教が今なお残り、両方の宗教が違和感なく存在する環境に育った監督は、18歳の時にアメリカに渡って、キリスト教徒がイスラーム教徒を敵対視する世界に直面する。それを悲しみ、ハリウッドで「アラブを洗濯して綺麗な状態で」欧米人に見せたいという思いで『ザ・メッセージ 砂漠の旋風』『砂漠のライオン』などの映画を作ったという。
アッカド監督は、2005年11月、ヨルダンの首都アンマンで起こったホテル連続爆弾テロに巻き込まれて亡くなられた。アラブのプロパガンダの為に情熱を注いだ監督が、このような最期を遂げたのは皮肉なことだ。


◆ハリウッド版とアラブ版の比較
アラビア語・アラブ映画に詳しい金子(勝畑)冬実さんのブログに、二つの「ザ・メッセージ」の違いが詳しく書かれています。ぜひお読みください。  
https://note.com/fakihaalshita/n/nf3fa4ff137ac

景山咲子