AIWFF2019 山田火砂子監督『一粒の麦 荻野吟子の生涯』 (千)

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◆ 日本/2019/105分 9月8日ウィルホール1310〜
公式サイト:http://www.gendaipro.jp/ginko/

明治時代、男性にしか医師の公的免許が許されていなかった頃、あらゆる勇気と助けと踏ん張りとで試験を受けることができ合格した日本の公許女性医師第1号、荻野吟子さんの物語。埼玉生まれ埼玉育ちの私にとっては偉人すぎる偉人ですが、全国的にはそんなに知られていないなんて、、ショックよりビックリ…、医師としては勿論、社会運動家としても当時、活躍していました。吟子さんが生まれ育った埼玉県北は、埼玉の中でも渋沢栄一や塙保己一など著名人を多く輩出しているエリアで、最近ではラグビーが盛ん!! 同じ県内でも私の地元・大宮とは少々、文化が異なります。

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★2019年10月26日より新宿k’sシネマほか全国順次公開!!

吟子さん、晩年になって、権威ある女医学誌創刊号の巻頭文を書いて欲しいとの原稿依頼が来ます。家族は「巻頭を飾るなんて‼︎」と大喜びで吟子さんを褒めても本人は「ただただ頑張ってきただけ」と全く動じない… この頑張り屋さんの吟子10代〜60代までを演じた女優・若村麻由美さんも素晴らしく。その吟子さんに恋するベテラン医師の井上先生を演じた佐野史郎さんが登場するシーンでは笑いもおこる。さすがキャスティングの妙と言うか、笑いあり涙あり映画のエンタメ性もほどよく入ってる、齢87才の山田火砂子監督にしか作れない社会派映画です。山田火砂子監督、長生きしてこれからも作り続けてください‼︎
上映後のトークイベントにも参加したかったのですが台風の影響で早めに名古屋を出発しました…残念無念…今年で24年も続いている国際女性映画祭、来年も楽しみにしてます。 (レポート:山村千絵)


あいち国際女性映画祭2019に行ってきました(暁)

『紅花緑葉(原題)』
英題:Red Flowers and Green Leaves
中国/2018年/97分
監督:劉苗苗(リウ・ミアオミアオ)
出演:ロー・クーワン、マー・スーチ
日本初公開  劉苗苗監督
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舞台は中国西北部の寧夏回族自治区の黄河上流域の村。この回族自治区では漢族系のイスラム教徒が多く住んでいる。撮影場所は劉苗苗(リウ・ミアオミアオ)監督が幼い頃から中学生頃まで10年余り住んでいた地域。
この地域に住むイスラム教徒の青年、古柏(グー・ボ)は、幼いころからてんかんの発作があるため結婚をあきらめていた。そんな彼に突然見合い話が舞い込んだ。彼は拒否したのだが、家族は強引に結婚話を進めてしまう。そして彼にとっては高嶺の花と思われた聡明で美しい阿西燕(アー・シーイェン)と結婚した。ゆっくりと距離を縮める二人だが、二人とも自分の状況については隠していた。やがて互いの隠し事が明らかになった。阿西燕には結婚寸前だった婚約者がいたが、交通事故で死んでしまい、なかなか立ち直れないでいた。そして家族は村の仲人業?をしている女性に依頼し、二人は見合いをし、結婚したのだが、それぞれの状況を乗り越え、二人は互いを受け入れることができるのか。中国のムスリム社会の農村を舞台に紡ぐ若者の愛の物語。
緑の少ない黄土高原が続く地の農村。農耕器具も簡単なものしかなく、ほとんど自分たちの体力が勝負の畑仕事の暮らし。そんな土地を出ていく若者も多く、この主人公の青年も仕事を求めて、他の土地へ働きに行くことも考えたが、病気もちのため、思うようにはいかない。
そんな彼の葛藤。狭い世界の中で、誰もが自分のことを知っているような土地で、なかなか自分の思うようにいかずもがいていた。家族の思いやりと束縛から逃れられずにいる、典型的な農村の光景。彼はそこから飛び出せずに、親の言いなりに結婚することになる。そんな生活と、中国のムスリムたちの風俗、風習など、これまでの中国映画とは一味違う生活が描かれる。
監督の劉苗苗は、1978年、北京電影学院に16歳という若さで入学。文化革命後、10年ぶりに募集があった北京電影学院に応募し、見事合格した。この年、回族からは3人の入学者がいたとのことだったが、その年の入学者には、のちに世界的に有名になった陳凱歌(チェン・カイコー)、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)、張藝謀(チャン・イーモウ)などがいて、他にも李小紅(リー・シャオホン)、彭小連(ポン・シャオレン)、寧瀛(ニン・イン)の3人の女性監督も同学年である。10年もの年の差の人たちもいる中での学生生活で、最初は気後れもしたけど、3年生になる頃には、製作実習などで同等に渡り合っていたらしい。、これらの監督の作品は、日本で数々紹介されてきたが、劉苗苗監督の作品も、これまでに『吉祥村の日々』(1992)、『朱家の悲劇』(1994)が公開されている。

『And Then They Came for Us
(そして私たちの番がきた)』
9月4日(水) 18:30/ミッドランドスクエアシネマ
アメリカ/2017年/50分
監督:アビー・ギンツバーグ
出演:ジョージ・タケイ、サツキ・イナ
アメリカ法曹協会2018 Silver Gavel Awards受賞

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左より アビー・ギンツバーグ監督とサツキ・イナさん

第2次世界大戦中、1942年アメリカ。ルーズベルト大統領が発令した「大統領令9066号」で、約12万人の日系アメリカ人が内陸部10ヶ所の収容所に送られた。アメリカ本土在住日系人の約8割、2/3はアメリカの市民権を持っていた。戦後45年以上たった1988年、レーガン大統領時代に正式謝罪があり一人一律2万ドルの補償がされ、強制収容の歴史を伝えるための基金も設立されたという。
収容の様子を撮ったドロシア・ラングやアンセル・アダムスなどの未発表写真などから歴史を振り返るとともに、後半では、苦難の歴史を生抜いた日系人たちが、現在、トランプ大統領が進めているイスラム系移民への入国禁止などの排他的な政策が「戦争当時の日系人に対する歴史の繰り返しだ」と抗議する姿も描かれる。現代を生きる私たちができることは何か。平和とは何かを考えさせられるドキュメンタリー。
監督は上映前「日系アメリカ人の強制収容があったことを知っている方は?」と質問したがほとんどの人が知っていた。
これまですずきじゅんいち監督の『東洋宮武が覗いた時代』(2009年日本公開)や『442 日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍』(2010年日本公開)、リンダ・ハッテンドーフ監督の『ミリキタニの猫』(2016年日本公開)などのドキュメンタリー映画で、この収容所のことを観てきたけれど、アメリカの写真家による記録は、この作品で知ることができた。
大恐慌時代の写真で知られる報道写真家ドロシア・ラングだが、その後、撮った強制収容所に移送される日系アメリカ人を撮影した写真は、約800枚が没収されたという。ヨセミテ渓谷の写真で有名なアンセル・アダムスはマンザナー収容所で収容所生活の様子などを撮影した。
 「そして私たちの番が来た」という題名は、「他人事だと思っていたら次は自分が標的だった」という、ナチスのユダヤ人迫害の歴史を踏まえたドイツ人牧師の戒めの言葉だという。上映後には、収容所経験者の子孫で、この映画にも出演しているサツキ・イナさんも監督と一緒に登壇しQ&Aを行った。この歴史を伝えるための活動をしている。

『この星は、私の星じゃない』 
英題:This planet is not my planet
9月5日(木) 10:00/ウィルホール
日本/2019年/90分
監督:吉峯美和
出演:田中美津、上野千鶴子
配給:パンドラ
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左から吉峯美和監督、田中美津さん

「女性解放」を唱えて始まった日本のウーマンリブ運動を牽引した田中美津さんの歩んできた道、鍼灸師として働く姿、そして沖縄辺野古に通う彼女の今を4年に渡り追ったドキュメンタリー。1970年、田中さんがビラに書いた「便所からの解放」が多くの女性の共感を呼び、ウーマンリブ運動のカリスマ的存在になった。昨今、話題になっている「Me Too運動」の先駆けともいえる。女性が「母性=母」か「性欲処理=便所」の二つのイメージに分断されているととなえ、その解放の呼びかけに「便所からの解放」という言葉が使われた。
「自分の思いに忠実に生きる」「ありのままの自分でいい」「自身の思を大切にして、他者からもそういう生き方が尊重されるべき」というような主張に結びついた。今ではこういう考え方はあたり前になっているけど、当時はそういうことを言うと「女のくせに」といわれた。「この星は、私の星じゃない」と嘆きながら、不器用にこの星に立ち続けてきた美津さん。体も弱くそれが鍼灸師の道を選ばせた。居場所を求めて、自分の思いに忠実に行動してきた美津さん。そんな美津さんの魅力にせまる。

『この星は、私の星じゃない』田中美津さん、吉峯美和監督インタビュー記事
http://cineja-film-report.seesaa.net/article/471281947.html

『作兵衛さんと日本を掘る』 
英題:Sakubei and the Mining of Japan
9月4日(水) 16:00/大会議室
日本/2018年/111分
監督:熊谷博子
配給:オフィス熊谷 
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熊谷博子監督

福岡県筑豊の元炭坑夫、山本作兵衛(1892~1984)が描いた炭鉱の記録絵と日記が日本初のユネスコ世界記憶遺産に登録されたのは2011年。暗くて狭く、熱い地の底で石炭を掘り出す男と女。命がけの労働でこの国の発展を支えた人々。作兵衛は幼い頃から炭鉱で働いていた。自分の体験した労働や生活を子や孫に伝えたいと60歳半ばから本格的に絵筆を握り、2000枚とも言われる絵を残した。
石炭を掘り出す作業は家族労働が主だった。女性の炭鉱内労働は1930年に禁止されたが、筑豊では戦後まで続いたという。作兵衛が記録画を描き始めたのは、国策で石炭から石油へと、エネルギー革命で炭鉱が次々と閉山していく頃。さらに、その裏で原子力発電への準備が進んでいて、炭鉱労働者は、今度は原子力発電所に流れていった。
監督は作兵衛の残した記憶と向き合い、104歳の元女炭坑婦を老人ホームに訪ねて、当時の炭鉱道具の使い方を教わったり、筑豊に住む作家森崎和江のほか、作兵衛の三女、孫、炭鉱労働者の自立と解放のための運動拠点を作った上野英信の長男など、作兵衛を知る人々の証言を聞き取り日本の近現代史をみつめた。

『作兵衛さんと日本を掘る』 熊谷博子監督インタビュー
http://cineja-film-report.seesaa.net/article/465896456.html

『女は女である』 
英題:A Woman Is A Woman
9月7日(土) 14:30/ウィルホール
香港/2018年/93分
監督:メイジー・グーシー・シュン
出演:アマンダ・リー、トモ・ケリー
協力:大阪アジアン映画祭 香港国際映画祭2018出品

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左からトモ・ケリーさんとミミ・ウォンプロデューサー

男子高校生のリンフォン(トモ・ケリー)は、自分の性別に違和感を覚え、思い悩んでいる。
学校が企画した「普段着での登校日」に、友人たちの提案で、女子用制服を身に着けて登校したところ心打ち震える感覚に真の自分を確信し、自分らしく生きることを決心する。
一方、リンフォンのガールフレンド、ライケイの継母ジーユー(アマンダ・リー)は20年前に性別適合手術を受けて女性になっていた。幸せな結婚生活を送っていると思っていたのに、それを知らずに結婚した夫ジーホンはショックで事実を受け入れられず、ライケイと共に家を出てしまう。果たして元の家族に戻れるのか。
 そしてリンフォンはライケイに、自分が女性になりたいと言えずにいる。自分らしく生きたいと願う二人のトランスジェンダー女性が抱える戸惑いや葛藤。時代は違っても、なかなか理解されない彼女たちの思いをリアルに描く。
「香港では、まだ日本ほどトランスジェンダーやLGBTに理解がなく、多くの人に観てもらいたかったので、LGBTを支持している有名な歌手アマンダ・リーに出てもらった」と、監督は語っていたそうだが、確かに香港映画で、こういうテーマのものは少ないかも。
 トモ・ケリーさんは日本で演技を学び、自身トランスジェンダー。「日本では、はるな愛さんなどトランスジェンダーの方がテレビにいっぱい出ているけれど、香港ではほぼゼロ。この映画を通じて、自分も彼女たちみたいにいろいろ発信できたら」と、きれいな日本語で語っていた。「トモ」は「友」が由来とのこと。

『カランコエの花』 
英題:Kalanchoe
9月6日(金) 14:20/ウィルホール
日本/2016年/39分
監督:中川駿
出演:今田美桜、永瀬千裕
配給:SDP
第26回レインボー・リール東京グランプリ受賞
京都国際映画祭2017クリエイターズ・ファクトリーグランプリ受賞
第4回新人監督映画祭コンペティション・中編部門グランプリ受賞

LGBTが抱える問題を、当事者ではなく周囲の人々の目線から描いた。とある高校2年生のクラス。ある日唐突にLGBTについての授業が行われた。しかし他のクラスではその授業は行われておらず、「うちのクラスにLGBTの人がいるんじゃないか?」と生徒たちに疑念が生じる。日常に波紋が広がり、思春期ならではの心の葛藤を抱えた生徒たちは、それぞれに行動を起こすが…。LGBTをテーマに、当事者ではなく周囲の人々にフォーカスしたドラマ。

『mama』 英題:mama
9月6日(金) 『カランコエの花』上映後/ウィルホール
日本/2019年/35分
監督:はるな愛
出演:吉野寿雄、田中俊介
配給:シネマスコーレ

『mama』は、はるな愛さんの初監督作品。
映画の舞台は名古屋市中川区の架空のバー。
吉野ママこと、伝説のゲイボーイ吉野寿雄さんは現在89歳。各界の著名人が訪れた六本木のゲイバーを閉め、今は中川運河沿いにあるバーをまかされている。そこへママを慕ってトランスジェンダーの亜美とゆしん、俳優の田中俊介が訪れ、東京でゲイバーを営んだママの戦前、戦後のゲイの歴史を引き出していくという設定。ドキュドラマの形を使って、戦前から戦後期の性的少数者に焦点を当てた。
 吉野ママは1951年、戦後初のゲイバーという新橋の「やなぎ」で働き始めた。63年に開店した六本木のゲイバー「吉野」は芸能界や政財界の著名人でにぎわったという。2000年に閉店したが、今も伝説として語り継がれる。
 はるな愛さんは名古屋で映画の番組に出演していて、その関係で「監督をやってみないか」と声をかけられた。それで考えたのが大先輩のオネエのレジェンド、ゲイとして生きてきた吉野のママの貴重なお話を聞いて、ドキュメンタリー作品にすることだったそう。