イラン / 1974年 / 75分
監督:アミール・ナデリ
◆2018年11月23日(祝・金)9:50~ 上映前の舞台挨拶
朝早くありがとうございます。朝早くからこんなに大勢観に来てくださるのは日本だけですので、お礼申し上げたい。ほかの国のシネフィルは違う。ここまで熱心じゃないです。この映画は、千年前から観てません。45年前に作られた映画なので、信じられますか? 自分の子ども時代の思い出から作ってますので、主役もアミールです。どうぞゆっくり観てください。
今回のフィルメックスでは5作の映画を上映してくださって感謝しています。最後は25日に上映される私が3本目に作った『タングスィ-ル』で時代劇です。ぜひご覧ください。
ショーレさんは、30年前から日本でイラン映画を紹介してきました。皆さんが観たイラン映画はショーレさんの努力の賜物です。ほんとに苦労をかけました。(「私がこれを訳すのですか?」と、はにかみながら訳すショーレさんでした。)
Thank you very much Enjoy!. Cut! Sit down!
(ずっとペルシア語で話していましたが、最後は英語!)
*ストーリー*

ペルシャ湾沿いの海辺の村。太っちょのアミールは父を亡くし、ナン(パン)屋のツケも払えない貧しい暮らしだ。いつもいじめられていたアブドルが、薬を飲んだご褒美に日本製のハーモニカを貰い、一躍人気者になる。皆、お金を払って吹かせて貰うが、お金を工面できないアミールは、アブドルを背負うことで憧れのハーモニカを吹く。皆にロバとからかわれ、母からも「人のロバになるなんて、人生をドブに捨てるよう」と、母の最後の宝物の銀のブレスで好きなものを買いなさいと言われる。アブドルの主導する騎馬戦で、またロバにさせられたアミールは、ついに反撃に出る。ハーモニカを奪って海に向かって走っていく・・・

ハーモニカを失ったアブドルは、皆に叩きのめされる。権力を失った者の運命・・・
子ども時代の思い出を映画にした作品といいながら、強烈なメッセージを投げつけてくれる。
ナデリ監督の生まれ故郷アバダンは、イラク国境に近い地。イランでもアラベスタンと言われ、独特の風俗が見られるところ。特に、女性が仮面のようなもので顔を隠す風習は、イランのほかの地域では見られないもの。南部独特の暮らしも垣間見れて、興味深い。
◆上映後のQ&A
ナデリ:とても悲しい映画だったね。(ちょっと涙ぐむナデリ監督)
自分の小さな時のこと。1995年にアジアフォーカス福岡映画祭で上映されて、福岡市総合図書館に収蔵されていたものを借りて上映することができました。あらためて、福岡市に感謝します。
撮っていた当時は純粋な気持ちで作っていて、その後、海外で上映されるとは思っていませんでした。
あまり言いたくないけど、この映画と、あと2本の映画がイラン革命を起こしたと聞いたことがあります。(しばし、無言)
司会(市山):あとの2本は?
ナデリ: 『タングスィール』と、『The Deer(鹿)』(監督:Masoud Kimiai,1974)です。
『タングスィール』を作って何ヶ月後かに『ハーモニカ』を作りました。シャーの時代(王政)でしたが、この2本は上映禁止になりました。5~6年後に革命が起こりました。革命が起きた時にはアメリカにいました。子どもたちがデモをしたのは『ハーモニカ』を観たから、大人たちは『タングスィール』を観て暴動を起こしたと言われました。
上映禁止になった時に、ファシスト的な映画と言われたのですが、私たちの貧しい生活はファシスト的。当時の貧しい生活への子どもたちのリアクションがあのようなものでした。
映画を作ったとき、印象派を試してみたかったのです。自分は政治的な人間じゃないし、政治は大嫌い。自分たちの体験した生活を描きたかっただけなのに、政治的と言われました。
◆会場から
ー 子どもの世界を描いているのに権力の象徴としてハーモニカが使われていました。当時の貧しい人々のことを描くのが目的だったそうですが。
ナデリ:あえて権力者を念頭に置いたわけじゃなかったけど、自分自身、あのような生活をしていました。人類の歴史を語ったような気が、後から観るとします。40年前に観て、今日、久しぶりに観て、子どもたちが痛々しくて悲しくなりました。権力者を描こうとしたわけじゃなかったのですが・・・。
児童青少年知育協会で作ったのですが、子供向きのはずがこんな映画になりました。
革命が起きた時アメリカにいて、2年後にイランに帰ったら、小学生の低学年にアミールという名の子が多いと言われました。この映画を観て、親が付けたみたいです。
この映画を観て、子どもたちはいじめはよくないと思ってくれたと思います。
このあと、1986年に『駆ける少年』を作りました。
― 子どもたちが生き生きしていました。現地でキャスティングしたのですか?
また、映画の最後、黄色っぽくしたのは?
ナデリ:子どもたちは素人で、現地で選びました。自分の撮りたい映像の枠の中で、子どもたちを撮るのは結構大変でした。
エンディングのカラーは、わざと自分で変えました。多色のカラーで撮っていたのを、最後、1色にして革命が起きたことを表わしたのです。これまで質問されたことがなくて、皆、ちゃんと観てくれてないと思っていました。
音楽も現地で採取したものを使っています。
『期待』『駆ける少年』など、自伝的映画を4~5本作っています。幸い、映像が残っていてありがたいです。
― 憧れの象徴がハーモニカでした。ほかに候補はありましたか?
ナデリ:児童青少年知育協会から、子ども向けの映画をといわれて作ったのですが、協会から、もう少し甘い感じで作るべきだったと言われました。憧れといえば、映画が大好きで、とにかく作りたかったのです。
― 印象派のタッチに近づけたかったとのことですが、エピソードがありましたらお聞かせください。
ナデリ:カラーに力を入れたのは、この作品が初めてかもしれません。子どもたちの自然な姿を撮りたいと、モダニズムを表わすものは入れたくなかった。
児童青少年知育協会は、自由を与えてくれました。フィルムをたくさんくれて、一つのシーンにたくさん使うことができました。
Everybody go home! Thank you!
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時間の制約があるのを察知して、まだまだ語りたいことはあったと思うのに、さっと切り上げるナデリ監督でした。
*1995年、アジアフォーカス福岡映画祭のイラン特集で観た時の遠い記憶では、太っちょの男の子がとても意地悪だったという印象でした。今回、20年以上の時を経て観てみたら、意地悪なのは、痩せたアブドルの方でした。太っちょのアミールは、実に可哀そうな境遇だったので、自分の記憶の曖昧さに情けなくなりました。おまけに、この映画を作った監督は意地悪な人に違いないとまで思っていたのですから。
『期待』と『ハーモニカ』をあらためて観て、若い時から、凄い映画を作る才能をお持ちであることを再認識しました。上映してくださった東京フィルメックスにも感謝です。(景山咲子)